続・欧州のエネルギー環境政策を巡る風景感

-市場安定化リザーブはEU-ETS再生の決め手となるか(その2)-


国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授

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 低迷するEU-ETS市場を立て直すため、短期対策としてのバックローディング、構造対策としての市場安定化リザーブ(MSR)と、欧州委員会があれこれ知恵を絞っている様子を見ると、2011年以降のユーロ立て直しへの悪戦苦闘と重なり合って見えてくる。ユーロが欧州統合のシンボルであるように、EU-ETSも欧州委員会がその導入・定着に多大の政治的、経済的リソースを費やしてきた欧州ワイドのメカニズムである。今更、放棄するわけにはいかないのだが、抜本的な解決をしようとすると、加盟国間の利害対立が立ちはだかるという点も類似している。

市場安定化リザーブの検討過程

 話をMSRに戻そう。欧州委員会は2014年1月に出された欧州委員会のワーキングドキュメント「市場安定化リザーブ(MSR)の設立、運営に関する欧州議会・理事会決定への提案-影響評価―」において、MSRについての綿密な検討を行っている。

http://eur-lex.europa.eu/legal-content/EN/TXT/PDF/?uri=CELEX:52014SC0018&from=EN

 上記評価では、炭素クレジットの市場バランス回復の手段として、大きく2つのオプションが検討されている。第1にオークション対象から一定量を回収・廃棄(retirement)し、オークション量を絞りこむ方法、第2により永続的なメカニズムとしてMSRを導入する方法である。上記評価では、現在の厳しい経済状況に対応するための1回限り(one-off)の回収・廃棄オプションよりも、EU-ETSの効率性を上げ、将来の事態にも対応できる永続的なメカニズムの方が有効であるとしてMSRを推奨している。

 更にMSRについては、リザーブへの回収及びリザーブからの放出のトリガーとなる条件、調節されるオークション量に応じて7つのケースを比較検討している。

余剰量がキャップ総量の40-50%の範囲(バンド)から外れた場合に発動。調節されるクレジット量はバンドどの乖離分(上限なし)
余剰量がキャップ総量の40-50%の範囲(バンド)から外れた場合に発動。調節されるクレジット量は1億トンを上限とする。
余剰量が4億~10億トンの範囲(バンド)から外れた場合に発動。調節されるクレジット量はバンドとの乖離分(上限なし)
余剰量が4億~10億トンの範囲(バンド)から外れた場合に発動。リザーブに繰り入れる量は累積余剰量の10%を上限とし、放出する場合は1億トンを上限とする。
余剰量の年間変化が1億トンを超える場合に発動。1億トンを超える余剰量変化があった場合は無制限に調節。
余剰量の年間変化が1億トンを超える場合に発動。1億トンを超える余剰量変化があった場合、調節量はその50%までとする。
GDP成長率見込みが2-3%のバンドから外れた場合に発動。調整量は2億トンを上限とする。

 なお、炭素クレジット価格の低迷に直接対応するため、クレジット価格の水準をトリガーとする案も有り得たが、EU-ETSは排出量に着目した手法であるとの理由で、検討対象にはならなかった。


【図4 各オプションによる余剰量のシミュレーション】(出所:欧州委員会)

【図4 各オプションによる余剰量のシミュレーション】
(出所:欧州委員会)

 上記評価においては、GDPのような余剰量と直接リンクしない指標をトリガーとする案は斥けられ、余剰量をトリガーとする案を比較検討し、他のオプションに比してシンプルかつ予見可能であり、調整量が膨大になったり、調整が頻繁に起きることを防ぐという理由で、余剰量のバンドを絶対量で広め(4-10億トン)にとり、調整量に上限をかけるオプション④が推奨された。図4は各オプションにおける余剰量のシミュレーションである(赤い点線で囲ったのがオプション④)。

市場安定化リザーブを2021年から導入する
余剰クレジットが8.33億トンを上回った場合、余剰分の12%を市場安定化リザーブに入れる
余剰クレジットが4億トンを下回った場合、リザーブから1億トンを次期オークションに出す。

という欧州委員会の提案は、数値は若干異なるものの、オプション④の考え方に沿った内容となっている。

市場安定化リザーブへの反応

 MSRを導入するためにはEU-ETS指令を改正する必要があり、全加盟国の支持が必要となる。しかし、2030年気候変動エネルギーパッケージの時と同様、西欧対東欧の対立軸、更には産業界においても意見の違いが顕在化している。

 環境関係者や英国等の加盟国は、欧州委員会提案を歓迎しつつ、EU-ETSを立て直すためには、もう一歩踏み込んだ対応が必要であると主張している。特に炭素市場の中心である英国のデイビー・エネルギー気候変動大臣は、ドイツ、オランダ、スウェーデン、デンマーク、スロベニア、マルタ、ノルウェー(注:ノルウェーはEU加盟国ではないがEU-ETSには参加)を誘って大臣名の共同声明を発表し、MSRの導入時期を2021年から2017年に前倒しするとともに、バックローディングの対象となった9億トンのクレジットも2019-2020年に市場に戻すのではなく、リザーブに繰り入れるべきであると提案した。産業界でもコストを転嫁できるエネルギー(電力)産業は賛成の立場である。

 これに対し、ポーランド、チェコ等の東欧諸国は価格への人為的介入であるとの理由でMSRの導入に反対している。欧州の経団連に相当するビジネス・ヨーロッパは、EU-ETSの改革が必要であるとしつつも、MSRと併せ、炭素リーケージを防ぎ、イノベーションを促進するための抜本的な対策が必要であるとの立場をとっている。2017年からの前倒し導入とバックローディングされた9億トンの繰り入れとの英国等の提案については、「EUの政策フレームワークはビジネス界の投資を可能にするような予見可能なものでなければならない。そのためには政策担当者が合意済みのルールを後から変えることは止めるべきだ。バックローディングされた9億トンは2019-20年に市場に戻すことで昨年合意したばかりである。また炭素リーケージ対策やイノベーション促進策を含む、抜本的なEU-ETS改革を行うためには、欧州委員会提案どおり2021年からの導入とすべきだ」として真っ向から反対している。

 欧州議会では既に前哨戦が始まっており、2月24日には環境委員会が2019年からの導入とバックローディングされた9億トンのクレジットをリザーブに繰り入れることを内容とする決議を行った。当然ながら、環境関係者や英独はこれを歓迎している。例えば環境コンサルのSandbagは、2021年導入、9億トンの市場への戻しを内容とする欧州委員会提案と、環境委員会の決議内容を比較し、余剰クレジット量がいかに違うかを示す分析を発表している。

【図5 欧州委員会提案と環境委員会提案の比較】(出所:Sandbag)

【図5 欧州委員会提案と環境委員会提案の比較】
(出所:Sandbag)

 他方、ビジネス・ヨーロッパは「本日の結論は国際競争力への悪影響に配慮せず、エネルギー多消費産業や貿易にさらされた産業に更なる負担を強いるものである。MSRを導入する場合、直接・間接の炭素コストによる炭素リーケージを防ぐ強力な条文を盛り込むべきである。欧州理事会、政策担当者はもっとバランスのとれたアプローチをとることを望む」との声明を発表し、強い失望感を表明した。

 MSRの導入のためには最終的には加盟国の合意が必要であり、今後、エネルギー相理事会、環境相理事会、欧州理事会で議論を重ねることになる。EU議長国ラトビアは本件について、自国が議長国である間に決着したいとの意向を有しており、今後の調整が注視される。

市場安定化リザーブの効果

 何も対策を講じなければ21億トンの余剰クレジットが存在し続け、炭素クレジット価格が更に低迷することは明らかだが、MSRが導入された場合、価格にどの程度の効果があるだろうか?強力なMSRが導入されれば、炭素価格は2015年末までに15ユーロ近くまで上昇するという見通しがある一方、電力部門におけるクレジット需要の伸びの見通しを低めにとると、環境委員会提案がそのまま実現したとしても、20億トン近い余剰量が市場に滞留し、はかばかしい価格浮揚効果は見込めないという見通しもある。仮に炭素価格が15ユーロに上がったとしても、石炭からガスへの燃料転換のトリガーとしては不十分という見方が強い。MSRは炭素価格の更なる暴落を防ぐセーフティネットとしては機能するが、EU-ETSを総量規制のみならず、低炭素投資や燃料転換の強力なドライバーにするためには、MSRの導入を超えた、更なる抜本的な政策変更が必要という議論もある。

 しかし、EU-ETSが石炭からガスへの燃料転換のドライバーになるためには、現在の7ユーロから4-5倍の30-35ユーロまで炭素価格を引き上げる必要がある。欧州委員会の分析では、1ユーロ炭素価格が上昇するごとに、産業向け電力料金が0.8%、家庭用電力料金が0.5%上がるとされている。7ユーロから30ユーロに上がれば、産業向け18%の上昇、家庭向け15%の上昇となり、欧州産業の国際競争力の問題や家庭用エネルギーコストのaffordability の問題を惹起するだろう。「炭素価格は高ければ高いほど良い」といった環境原理主義的なアプローチは取り得ない。総選挙を今年5月に控えた英国では、炭素価格にフロアプライスを設け、年々引き上げるという施策を棚上げにせざるを得なかった。

 このようにEU-ETS改革に当たっては、炭素価格のみならず、制度の安定性、産業競争力や家庭への影響、加盟国間の意見の違いにも目を配った、綱渡りのような対応が必要になる。そうした制約条件の中で欧州委員会が知恵を絞ったMSR提案である。複数のオプションを検討し、インパクトアセスメントをし、それをワーキングペーパーの形で公開する欧州委員会のアプローチは、立場の違いを超えて敬服に値すると思う。今年半ばにかけてMSRがどのような形で決定されるのか、開始前、開始後で市場にどのような影響を及ぼすのか、注視したいところである。

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