第1話「原子力外交の都、ウィーン」
加納 雄大
在ウィーン国際機関日本政府代表部 公使
外交の都、ウィーン
オーストリアのウィーンと聞いて、読者の皆さんは何を思い浮かべるだろうか。多くの方は、モーツァルトやウィーンフィルのニューイヤーコンサートなどから「音楽の都」をイメージするのではないだろうか。クリムトやシーレの絵画、ウィンナーシュニッツェルやザッハートルテなどの食べ物を思い浮かべる方もいるに違いない。
ウィーンは「外交の都」でもある。ハプスブルク帝国の首都であったウィーンは、数百年の長きに渡り、欧州の国際政治の中心であった。ナポレオン戦争後の欧州の戦後秩序について討議したウィーン会議は、今から200 年前の1814年~1815 年にシェーンブルン宮殿で開かれた。100 年前の1914 年に勃発した第1次世界大戦は、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子が暗殺されたサラエボ事件が引き金となっている。第2次世界大戦での敗戦、占領を経てオーストリアは中立国としての道を選んだが、冷戦期のウィーンは、東西両陣営の狭間でスパイが跋扈していたとも言われる。
長い外交の歴史と、ユニークな地政学的位置を背景に、ウィーンはニューヨーク、ジュネーブに次ぐ第三の国連都市として、多くの国際機関を擁している。旧市街からドナウ河を挟んだウィーン国際センター(VIC: Vienna International Center)には、国際原子力機関(IAEA)をはじめ、原子力の平和的利用、軍縮・不拡散、工業開発、麻薬・犯罪対策、宇宙協力など様々なグローバル課題を担う国際機関が本拠を置いている。旧市街には、石油輸出国機構(OPEC)、欧州安全保障協力機構(OSCE)、輸出管理の国際レジーム(ワッセナーアレンジメント)の事務局も存在する。
その外交の都、ウィーンにおいて、とりわけ強い存在感を放っているのが、IAEA を舞台に繰り広げられる、原子力外交である。
IAEA の誕生
数多ある科学技術のなかでも、原子力技術ほど、その存在意義について激しい論争を巻き起こしてきた技術は無いであろう。1930 年代後半にドイツの科学者により発見された核分裂反応は、第2次世界大戦の時代背景もあって、軍事面での利用が真っ先に探求された。急ピッチで押し進められたマンハッタン計画は、ついには1945 年8 月の広島、長崎における原爆使用という悲劇につながることとなった。軍事利用から始まった歴史的経緯を抜きに、原子力を語ることはできない。
戦後、米国による原子力の独占は、1949 年のソ連、1952 年の英国の核実験により崩れる事となる(その後、1960 年にフランス、1964 年に中国が追随)。核拡散の恐れが高まる中、原子力を軍事ではなく平和のために利用するため、新たな国際機関の設立を提唱したのが、1953 年12 月のアイゼンハワー大統領による「平和のための原子力」演説(“Atoms for Peace ” Speech)である。同演説においてアイゼンハワー大統領は、米国がもつ核兵器の軍事的役割(抑止力)の維持を明言しつつも、原子力技術が民生分野で貢献し得るポテンシャルの大きさを強調した。そして、各国が保有する核物質を提供し、新たな国際機関によって管理、利用する構想を打ち出した。現在のIAEA が実際に果たしている機能よりも野心的な構想であった。この“Atoms for Peace”という標語はIAEA事務局内のあちこちに見られる。