第6話(3の2)「ポスト『リオ・京都体制』を目指して(1)」


在ウィーン国際機関日本政府代表部 公使

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(日本の「課題」はある。)
 それでは、国際枠組みの構築において、日本が国力に見合った対応が十分に出来ているかといえば、課題がないわけではない。
 最大の課題は、日本の国益と地球益を調和させた国際枠組みの構築について、能動的に対外発信を行うための、国内での知的基盤の構築であろう。
 環境・エネルギー分野で日本国内に多くの優れた知見があることは疑いもない。官民の多くの優れた専門家の努力なくして、現在の省エネ大国としての日本はなかったし、3/11,福島原発事故を受けて、現在、日本の新たなエネルギー・ミックス、地球温暖化対策策定のため、様々な場で真摯な議論がなされているのも事実である。ここでいう課題とは、そうした日本国内の優れた知見を、日本国内の制度設計のみにとどめず、あるべき国際枠組みの構築のための国際場裡での議論に如何に反映させていくかという点である。これは環境・エネルギーの専門家のみならず、外交当局にとっても大きな課題である。

 国際枠組みに関する日本国内での議論は、京都議定書「延長」問題に代表されるように、現行の「リオ・京都体制」への賛否が専ら対立軸となっている。「環境派」と「経済派」の間ですれ違いの議論が繰り広げられ、結果的に環境・気候変動を巡る議論が大多数の人々の感覚から乖離したものとなり、気候変動問題全般への関心の低下を招いている。(なお、ここでいう「環境派」、「経済派」とは、現行の「リオ・京都体制」に対する様々な考え方が存在するのを明確化するため、便宜的に二つに分けて単純化したものである。特定組織の個別具体的な主張をとらえたものではない。実際、同一組織に両方の考え方が並立するケースもまま見られる。)
 「環境派」は、現行の「リオ・京都体制」はすべからく維持されるべしとの考えである。その主張は国際環境NGOのレトリックの翻訳調であることが多い。「○○では~」といった調子で海外の事例の一部分のみを切り取ってとりあげる、いわゆる「出羽の守」になる傾向がある。環境派メディアも、Japan bashingないしJapan passingのストーリーの文脈で、これら主張を十分吟味することなく紹介しているようにみえることもある。日本の幅広い各層の共感を得ているとは言い難い。京都議定書「延長」が焦点になったCOP16やCOP17の際、主要メディアで日本の京都議定書「延長」参加を求める社論を掲げたところは(自分の知る限り)結局皆無であったのも、その表れと言える。
 一方、「経済派」は、「リオ・京都体制」は押しつけられたものであり拒絶すべきとの考えが強い。特にCOP3における京都議定書成立の顛末について、一種のトラウマを感じている向きもあるのかも知れない。そのせいか「経済派」は「日本独自モデル」構築への思いが強く、経済派メディアでもこれを鼓舞する向きがある。しかし、いかに優れた技術、モデルでも、国際的に普及させる展望、戦略なしには「ガラパゴス」になりかねない。「リオ・京都体制」は日本を含む国際社会がつくりあげてきたものであり、新たな国際枠組みも、全くの更地からでなく、これまでの積み重ねを踏まえたものになるであろう。こうした国際的流れをとらえた上で、日本から将来枠組みのデザインを提案し、その提案内容についても、各国のフィードバックを踏まえて幅広く受け入れられるよう、随時見直していくような柔軟さが求められる。「経済派」にはこうした取り組みがまだ十分ではないように見える。
 「環境派」、「経済派」両者に共通するのは、国際枠組みが日本の手の届かない所で外生的に決められてしまうという発想、日本が出来るのは、それを受け入れるか拒絶するかの二者択一しかないという発想である。国際枠組みの構築プロセスにおいて日本が受動的(reactive)であるという点で両者は共通している。

 ここから一歩踏み出し、全ての主要国が参加する公平、実効的な国際枠組み構築のため、日本自身の知見、経験を生かしながら、能動的(proactive)に関わること、それが日本の「課題」であろう。高いエネルギー効率、技術力、資金力を有する日本にはその能力は十分にある。3/11、福島原発事故の影響ですら、いたずらにハンディキャップととらえる必要は無く、むしろチャンスととらえるべきではないだろうか。なぜならエネルギー・ミックスは日本だけの課題ではなく、今後数十年にわたり世界全体が直面する課題だからである。
 この能動的関与は、決して簡単な道ではない。国際場裡で「リオ・京都体制」の問題点や、「米国問題」、「中印問題」、「欧州問題」の本質を臆せず指摘しながら、新たな国際枠組みに関する日本の提案について、十分な普遍性、幅広い受容可能性を持つものであるとの理論的裏付けを持って主張していく必要がある。これは生半可な覚悟では出来ない、知的エネルギーの投射能力が求められる。環境か経済か、といった論争を国内の土俵で行うよりも、はるかに厳しい国際的な知的論争に挑む覚悟が必要となる。

(つづく)

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