ドイツ統一と地球温暖化問題


ジャーナリスト

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 ベルリンからライプチヒなどに行く際に、特急電車(ICE)に乗って南下していくと、途中にビターフェルト(Bitterfeld)駅がある。ベルリンで特派員をしていたとき、そこを通るたびに、「東ドイツ時代に公害で悪名高かった工業都市はここか」と窓外を見回した記憶がある。
 去る10月3日はドイツ統一30周年で、当時のことを色々調べているうちに、このビターフェルトを思い出した。
 1980年代後半から90年代初めまでの東西冷戦崩壊の一連のプロセスで、大きな役割を果たしたのが東ドイツの民主化運動だったが、環境悪化への抵抗運動もその一翼を担っていた。東ドイツの大気汚染や水質汚濁の深刻化を端的に物語る場所が、ビターフェルトだった。
 ここが化学コンビナートの町に発展する発端は、19世紀半ば、市の南郊で褐炭の露天掘り炭坑が始まったことだった。19世紀の終わりに電気化学の大きな工場が操業を開始し、ヨーロッパで最重要な塩素化学の中心となり、第1次世界大戦中はアルミニウム工場、発電所も建設された。化学産業トラストの「I. G. ファルベン」が中部ドイツの拠点を設け、巨大なコンビナートとなった。第2次世界大戦後はソ連に接収された後、東ドイツに引き継がれ、東ドイツ国営の電気化学コンビナートとなった。
 問題はその後数十年にわたり、満足な設備更新はされず、環境浄化設備も設置されなかったことである。排水、排気はいわば垂れ流し状態で、「ヨーロッパで最も汚い町」との名称が付いたほどだった。この工業都市の惨状は、東ドイツの硬直した計画経済の失敗を赤裸々に物語っていた。
 1988年には東ドイツの秘密警察「国家保安省(シュタージ)」の監視をかいくぐり、環境活動家が撮影した、この町の環境破壊の実態を告発する映像が、西ドイツの報道機関によって番組に編集、放映され、広く知られるところとなった。
 YouTube注1)で部分的に映像を見ることができるが、煙突から排出される黒煙、鉄管から川に垂れ流される汚水など、今見ても生々しい映像である。登場人物は当局が実態を隠蔽していること、住民に健康被害が出ていることも訴えている。
 ちなみにこの番組のタイトルは「Bitteres aus Bitterfeld」(ビターフェルトからの悲痛)。ドイツ語のbitterは英語と同じで、苦い、つらい、悲痛な、といった意味で、文字通り訳せば「悲痛の野原」であるBitterfeldに引っかけたタイトルである。
 この告発も東ドイツの民主化運動が広がるのに貢献した。そして翌年11月9日のベルリンの壁崩壊までつながっていく。
 ドイツ統一以降、ビターフェルトのコンビナートは分割民営化され、老朽化した産業設備が廃棄ないし更新された。褐炭の露天掘り鉱山も閉鎖された。ビターフェルトの例は象徴的で、統一後、旧東ドイツ地域全体でこうした劇的な環境改善が実現した。
 余談になるが、2007年1月にポーランド・シロンスク地方のミルスクという小さな町を取材で訪れたことがある。町は石炭を燃やした焦げた臭いで満ちていて、アパートの前の歩道には石炭の山が築かれていた。
 東ドイツ時代の冬もこんな感じだったろうと容易に想像できたが、統一後、ガス暖房に相当程度切り替わったはずである。特派員時代、統一後10年近く経った旧東ドイツ地域も随分歩いたが、町が石炭の臭いで満ちていた、という記憶はない。暖房に石炭を焚くことが少なくなったことも、旧東ドイツ地域の環境改善に大きく寄与したことは言うまでもない。
 さて、折しも、統一ドイツが歩みを始めた1990年代は、地球温暖化が世界的な課題となった時期である。気候変動枠組み条約が92年に採択、94年に発効し、95年にベルリンで第1回気候変動枠組条約締約国会議(COP1)が開催された。このサイトの読者には言わずもがなだが、COPではまず、先進国と経済移行国(旧東欧諸国、ロシア)の温室効果ガスの削減目標が議論の一つの焦点だった。
 1997年京都で開催されたCOP3では、これらの国々に目標を義務づけた「京都議定書」を採択した。2008~2012年(第1約束期間)の5年間で1990年比日本-6%、米国-7%、欧州連合(EU)-8%、全体で約5%削減する目標を定めたのである。
 ここで1990年を基準年にしたことが大きな意味を持った。今述べたように、90年にドイツ統一が実現してから、旧東ドイツ地域の環境は劇的に改善した。90年が温室効果ガスをはじめ環境汚染のいわばピーク時に近かった(ドイツでは東ドイツの経済活動の鈍化などが影響して遅くとも87年から温室効果ガスの排出量は減少している)と言え、それを基準年にすることは、いわば「削り代(しろ)」を大きく取れることを意味した。
 ドイツを初めとするEUは交渉において、15%削減という野心的な削減目標を掲げ、有利な立場を確保した。逆に脱石炭化や省エネをすでに大きく進め「削り代」の少ない日本は、ドイツなどとの交渉に苦慮することになる。
 日本の交渉団の中心メンバーだった外務省や経産省官僚が、交渉の過程を書き残している注2)。この中で、COP3の準備会合でメルケル環境相(当時。後に首相)は、「日本の(COP3に向けた)提案は野心的でなく、率直に言って失望した」などと強硬な姿勢で日本に求めてきたことが報告されている注3)
 1990年を基準年としたのは、気候変動枠組条約第4条が「温室効果ガスの人為的な排出の量を1990年代の終わりまでに従前の水準に戻すことは、このような(温室効果ガス排出の長期的傾向の)修正に寄与するものであることが認識される」と定めていることによる。


出典:ドイツ連邦環境庁

 そして、枠組条約を深化させるものとして位置づけられたCOP3の交渉では、「ほぼ自然のなりゆきとして1990年を基準年として採用した。『どのような基準年が自国に有利か』という点は重要な交渉事項にはならなかった」という注4)
 であるならば、枠組条約策定の交渉過程で、なぜ1990年を基準年としたのか。
 交渉では強い削減義務を求めるEU諸国と、義務化を弱めることを主張する米国、途上国との間の調整がおもな対立点だった。基準年については、1990年(日本、欧州共同体(EC)、米国)、1987年(ドイツ)、88年(イタリア、オーストラリア、デンマーク、オーストリア)などと分かれたが、90年を基準年とすることは、大きな議論とはならなかったようである。
 当時カナダが国内目標として2000年までに1990年のレベルに削減することを掲げていたとの資料もあったが、切りのいい1990年を基準年とすることが当時自然な流れだったのだろうか。地球環境担当大使として交渉に臨んでいた赤尾氏は、日本は作業部会議長国として、温室効果ガス排出の「安定化」を条約上の義務ではなく努力目標とすること、しっかりした誓約・審査制度を設けることなどを提案して交渉をまとめていった、と回想しているが、基準年が大きな争点になった様子はない注5)
 いずれにせよ、その後の経緯を見れば、EUの第1約束期間の目標は達成された。そして、ドイツ環境省の報告書によると、2000年のドイツの温室効果ガス排出量は1990年比で、統合効果による削減量が全体の削減量の47%を占めている。事実として、目標達成には旧東ドイツ地域の削減が大きく寄与した。もし、ドイツを初めEU諸国が90年代初頭、意図的に90年を基準年とするべく交渉を導いたのであれば、この戦略は大成功を収めたと言える。
 COP3の時点では日本のメディアもその点は気づいていて、当時の新聞は、「イギリスやドイツで脱・石炭のエネルギー転換が進んでおり、経済にさほどの負担を強いることなくCO2を減らせる見込みとなっている」(読売新聞1996年12月5日付け朝刊)と報じている。
 私が調べられた限りの歴史を記したが、政治の世界の出来事であるドイツ統一が、いかに地球環境問題にも意味を持ったか、改めて思い出す機会になれば幸いである。

注1)
YouTube「DDR 1988: Peter Wensierski über den Film “Bitteres aus Bitterfeld”」
https://www.youtube.com/watch?v=ULaE5o3n3Bc
注2)
田邊敏明「地球温暖化と環境外交 京都会議の攻防とその後の展開」(時事通信社、1999年)、澤昭裕、関総一郎編「地球温暖化問題の再検証」(東洋経済新報社、2004年)、赤尾信敏「体験的環境外交論 地球は訴える」(世界の動き社、1993年)
注3)
田邊「地球温暖化と環境外交」、133頁。
注4)
澤、関「地球温暖化問題の再検証」、62頁。
注5)
赤尾「地球は訴える」、108頁。