E-ledgersは日本企業を幸せにするのか-学術界の評価と産業界への示唆
藤枝 一也
素材メーカー(環境・CSR担当)
第1回、第2回に続き、今回は「E-ledgers/E-liability」に対する現時点での学術界の評価を整理するとともに、日本の産業界への影響について考察します。
学術界でも評価は分かれている
E-ledgers/E-liabilityは学術界でも賛否がせめぎ合っている状況です。たとえば、2024年にエディンバラ大学の研究者らが発表した「A commentary on E-liability: does it bring something new to GHG accounting?」(E-liabilityに関する考察:GHG算定に新たな視点をもたらすか?)と題する論文でE-liabilityについて検証しています。スコープ3に対する問題提起は評価できる一方で、「下流排出の報告が限られていることは情報の重大な欠損」「販売製品のみの炭素排出しか計上されず、未販売在庫分が消失してしまう」「最も炭素削減能力が低い最終消費者へ責任転嫁している」など、多くの課題を指摘しています。
GHGプロトコルを運営する世界資源研究所(WRI)も「A commentary comparing the GHG Protocol and E-liability approaches to corporate GHG accounting and reporting」(企業の温室効果ガス算定・報告におけるGHGプロトコルとE-liabilityのアプローチを比較した解説)と題した論文の中で、「E-liabilityはGHGプロトコル基準の代替にはならない」「一次排出データの転送は品質向上につながるが、E-liabilityのこの機能は目新しいものではなく、すでにGHGプロトコルに含まれている」と指摘しています。
つまり、本稿の第1回で紹介したとおり、ハーバード大のカプラン教授らは「ESG報告に対する初の厳密なアプローチ」と位置付け、財務諸表と同様に正確・適時・比較可能・監査可能な環境元帳を作成できると主張しています。一方、エディンバラ大学は「炭素情報の欠損」を招くと批判し、GHGプロトコルを運営するWRIは「目新しさはなく、既存基準の代替にはならない」と指摘しています。現時点では、確立した理論というよりも、学術界・実務界の双方で検証が続いている状況と言えそうです。
産業界がブルシット・ジョブに付き合わなければよいだけだが、別の懸念も
国際機関や欧米のルールメイカーたちが環境規制やサステナビリティ施策、脱炭素イニシアチブをつくって日本の産業界へ強制してくる構図は近年の環境関連の規則、組織で幾度となく繰り返されてきました。
SDGs、ESG、TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)、CDP、SBTi、CA100+(クライメートアクション100+)、そして今や青息吐息となったスコープ3などなど、多くの環境規制に「地球温暖化が本当に緩和するか」「企業価値の向上につながるか」といった実効性の担保はありません。実務層に対して「難しそうな新しい概念や手法」を定期的に示し、経営層に「対応しなければ市場から排除される」という恐怖を植え付けることで、環境に係わる新しいビジネスが拡大再生産されてきました。中身が難しければ難しいほど、CO2削減効果が出ないほど、従業員への理解浸透が見えにくいほど、サステナビリティ教育や脱炭素コンサルのニーズが継続します。
CO2を1グラムも減らさない不毛なマッチポンプビジネスの本質を、そろそろ我々産業界側が見抜く必要はないでしょうか。日本企業は真面目なため、こうした国際ルールが提示されると、「いかにして目の前のルールに対応するか」というフォロワー思考に陥りがちです。
特に、今回のE-ledgersに関しては、高尚な理念に加えて、社会全体における非現実性と自社における費用対効果を冷静に判断しなければなりません。CO2削減やコスト削減、企業価値向上などの実効性を伴わず、増える一方の事務作業や費用負担、すなわちブルシット・ジョブ(クソどうでもいい不毛な仕事)に莫大なリソースを割かれることは、かえって現場の技術革新(省エネ設備の導入や歩留まり改善、次世代エネルギー開発等)に向けられるべき貴重な経営資源が奪われることにつながります。世界的にスコープ3が衰退している中で、さらに巧妙化した「炭素簿記」という名の新たな環境規制にものづくりの現場が搾取されてはなりません。我々が取り組むべきは、複雑怪奇な炭素パズルではなく、コスト削減を伴うエネルギー効率の向上や、現場の技術力に裏付けられた実効性あるCO2削減施策、そして企業としての持続的な成長なのです。
筆者は、このE-ledgersが今後スコープ3に取って代わるか、または併存する事態になれば、さらに日本の産業界が生産性を損なわれ国際競争力が失われてしまうと確信しています。今後、E-ledgersがどのような形で制度化・標準化へ向かうかは不透明です。しかし、炭素集計システムの導入、第三者保証・監査対応、E-ledgersを一から学ぶための授業料などなど、企業にとっての新たなコスト要因(推進派にとっては新たな、そして広大な市場形成)につながることが容易に想像できます。あるかどうかも分からないリスクを針小棒大に煽り、手を変え品を変え海の向こうからやってくる脱炭素・サステナビリティ施策に対して、そろそろ産業界側が受け止め方を根本から変える時期に来ています。
ただし、産業界側が事の本質を見極められたとしても、今回のE-ledgersはこれまでのSDGs、ESG、スコープ3などよりもトップダウンによる強制力が働きやすいことを筆者は強く懸念しています。何の強制力もないISSB基準を真に受けてスコープ3を義務化したのに欧米からハシゴを外されてしまった我が国だけに、非現実的な「世界一斉同時開始」が前提となるこのE-ledgersはとてもとても心配です。少なくとも、日本だけが十分な議論もなく再び世界の先頭を走ることだけは避けるべきと考えます。
最後に私事ですが、筆者は二十代前半の頃、理系の半導体研究者としてメーカーに勤務する傍ら、環境経営を学ぶために夜間大学へ入学しました。苦手な文系科目の中で最も苦労した会計学ゼミナールを専攻して、「環境会計」をテーマに卒業論文を書き上げました。そのため財務会計の考え方を炭素会計へ応用しようというE-ledgersには強い関心を抱いています。また、20年来の製造業環境部門担当者として、実測も削減も可能なスコープ1に特化している点も大いに賛同します。
だからこそ、その理念や斬新さだけで無批判に受け入れるのではなく、この仕組みが本当に機能するのか、企業や社会にどのような便益と費用をもたらすのかを冷静に検証する必要があると考えています。理念として優れていることと、世界中の企業や地球環境にとって有益であることとは、必ずしも同義ではないこともまた、実務家として常に意識しています。その意味でも、E-ledgersは日本でも議論に値するテーマだと感じています。本稿がその議論の一助となれば幸いです。まだまだ勉強中のため、専門家からのご指摘や助言をお待ちしています。
第1回 スコープ3の次を狙う新たな環境ビジネス「E-ledgers/ E-liability」 はこちら
第2回 炭素会計革命の落とし穴-「E-ledgers/E-liability」は本当に機能するのか はこちら











