欧州グリーンディールと農業の衝突:Farm to Fork戦略の挫折


東京大学名誉教授

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要約

欧州連合(EU)が掲げる野心的な環境政策「欧州グリーンディール」の中核を成す「Farm to Fork(F2F:農場から食卓まで)」戦略、とりわけその法的支柱だった「持続可能な農薬使用規制(SUR: Sustainable Use Regulation)」が、2024年2月に撤回された。これは複合的な危機の連鎖によってもたらされた必然だった。第一に、2022年のロシアによるウクライナ侵攻により「環境の持続可能性」から「食料安全保障」へと政策の優先順位が転換した。第二に、エネルギー危機とインフレによる生産コストの急騰などが農民の経済的困窮を招き、爆発的な抗議運動へと発展した。第三に、中道右派の欧州人民党が農民票の離反と極右勢力の台頭を恐れ、環境規制への反対姿勢を鮮明にしたことである。これは、EUの環境政策全体の転換点を示唆する。

欧州グリーンディールの野心とF2F戦略

2019年12月、ウルズラ・フォン・デア・ライエン委員長率いる新欧州委員会は、「欧州グリーンディール」を発表し、2050年までに欧州を世界初の気候中立大陸にするという壮大なビジョンを掲げた。その包括的なアプローチは、エネルギー、輸送、産業、そして農業を含むあらゆるセクターの変革を要求するものだった。

その農業・食料部門における実行計画として、2020年5月に策定されたのが「Farm to Fork(F2F)」戦略である。この戦略は、食料システムを公平で健康的、かつ環境に優しいものへと転換することを目的とし、以下の野心的な定量目標を設定した。

分野 2030年までの目標 政策的意図
化学農薬 使用量およびリスクの50%削減 生物多様性の回復、受粉媒介者の保護、市民の健康被害リスク低減
化学肥料 使用量の20%削減 土壌汚染および水質汚染の防止、土壌健全性の回復
有機農業 全農地の25%を有機農業へ転換 環境負荷の低い農法の普及、高付加価値化
抗菌剤 家畜・養殖用販売量の50%削減 薬剤耐性菌問題への対処

これらの目標は、従来の農業政策が生産性向上を主眼としていたのに対し、環境負荷低減を最優先事項として位置づける抜本的なパラダイムシフトだった。欧州委員会は、これらの目標達成が長期的な食料安全保障と農民の収益性確保につながると主張したが、農業界は当初から懐疑的な視線を向けていた。

F2F戦略の目標を達成のために最も重要な立法的措置が、「持続可能な農薬使用規制(SUR: Sustainable Use of Pesticides Regulation)」である。SURは「指令(Directive 2009/128/EC)」ではなく「規則(Regulation)」として提案され、EU全体および各加盟国に対して法的拘束力のある削減目標を課すものである。SURの主な提案内容は以下の通りである。

1.
法的拘束力のある削減目標: EU全体で化学農薬の使用とリスクを50%削減する。
2.
敏感な地域での使用禁止: 公園、学校、遊び場、自然保護区などの「敏感な地域」およびその3メートル以内での農薬使用を全面禁止する。
3.
統合的病害虫管理(IPM)の義務化: 代替的な防除方法を優先し、化学農薬の使用を最後の手段とすることを義務付ける。

この提案は、2022年6月22日に正式に発表されたが、発表のタイミング自体が既に困難な状況下にあった。ロシアによるウクライナ侵攻が始まっており、食料安全保障への懸念が高まっていたためである。

ウクライナ戦争と経済的圧迫

ウクライナ戦争以前、EU農業政策の主要な対立軸は「生産性 vs 環境」であり、環境派が優勢だったが、戦争勃発により「食料安全保障」が最優先課題に浮上した。欧州最大の農業ロビー団体であるCopa-Cogecaや保守系政治家は、この危機をてこにして、「戦時下において生産を抑制するような規制は自殺行為」と主張した。

戦争に伴うエネルギー価格の高騰は、農業経営を直撃した。天然ガスを原料とする窒素肥料の価格は一時3倍以上に跳ね上がり、燃料、飼料、電気代などのコストも軒並み上昇した。一方で、農産物の販売価格はコスト上昇分を十分に転嫁できず、多くの農家の収益性が悪化した。小売業者や食品加工業者の力が強いサプライチェーン構造の中で、農家は「コスト高」と「安値販売」の板挟み状態に陥った。この経済的困窮が、後の抗議運動の火種となった。

EUはウクライナ支援の一環として、黒海ルートが封鎖されたウクライナ産穀物の輸出を支援するために「連帯レーン」を設置し、関税を一時撤廃した。しかし、流通の不備により、穀物が本来の目的地であるアフリカや中東に届かず、隣接するポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどの東欧諸国に滞留する事態が発生した。安価なウクライナ産穀物の大量流入は、東欧諸国の国内穀物価格を暴落させ、地元農民に壊滅的な打撃を与えた。ポーランドなどの農民は、「EUはウクライナを支援するために自国の農民を犠牲にしている」と激昂し、国境封鎖や激しいデモを行った。この問題は、EUの農業政策に対する不信感を決定的なものにし、抗議運動が西欧だけでなく東欧も含めた全欧的なものへと拡大する要因となった。

農民抗議運動

2023年後半から24年初頭にかけて、欧州各地で激しい抗議活動が連鎖的に発生した。これらは、各国固有のトリガーによって始まったものの、次第に「反EUグリーンディール」「反環境規制」という共通の旗印の下に合流していった。以下に主要国における抗議の詳細を分析する。

各国の抗議運動の分析

時期 トリガー 具体的要求・背景 抗議手法
オランダ 2019年〜継続 窒素排出規制 厳しい窒素排出削減策が、家畜飼育数の削減(最大30%)や農場の強制買収につながるとの懸念。「農民の生存権」をかけた闘争となった 高速道路封鎖、物流センター封鎖、「逆さ国旗」の掲揚。新党「農民市民運動」の躍進につながった
ドイツ 2023年12月 農業用ディーゼル補助金の撤廃 予算不足を埋めるため、政府が突然ディーゼル燃料への税制優遇廃止を発表。これが「我慢の限界」となり、全土で大規模デモが発生 ブランデンブルク門前の大規模トラクター集会。アウトバーンの入り口封鎖。極右政党AfDが便乗し支持を拡大
フランス 2024年1月 規制過多、収入低下、
不公正貿易
煩雑な環境規制への事務負担、南米との自由貿易協定への反対、スーパーマーケットによる価格圧力への不満。「フランスの農業を守れ」と訴えた パリへの主要道路封鎖、政府庁舎への肥料投棄、輸入トラックの積み荷検査・破壊。アタル首相による譲歩を引き出した
ポーランド 2024年2月 ウクライナ産穀物流入、
グリーンディール
ウクライナからの安価な穀物・農産物流入による国内市場崩壊への抗議。EUグリーンディール全般への拒絶 ウクライナ国境の検問所封鎖、穀物貨車の破壊・投棄。反ウクライナ感情と結びつき、外交問題化した
ベルギー 2024年2月 EU規制、収入低下 EU本部でのデモ。環境規制によるコスト増と価格転嫁の困難さを訴えた 欧州議会前広場の占拠、バリケード、タイヤ放火。EU首脳会議に合わせて圧力をかけた
スペイン 2024年2月 干ばつ規制、水不足 深刻な干ばつによる取水制限と、EUの環境規制の板挟みに対する不満 港湾封鎖、マドリード中心部へのトラクター行進

共通していたのは「EUのエリートによるトップダウンの規制」に対する強烈な拒絶感である。農民たちは、自分たちが食料を生産し社会を支えているにもかかわらず、環境破壊者として扱われ、実現不可能な目標や過度な負担を強いられていると怒った。SURは、代替手段が十分に提供されないまま、一律に農薬使用の半減を義務付けるものとして、この「現場無視の政策」の象徴と見なされた。Copa-Cogecaなどの農業団体はSURを「懲罰的」な規制であると批判した。

政治的攻防とSURの挫折

SURの撤回は、欧州議会における激しい権力闘争の結果でもあった。特に、議会最大会派である中道右派の「欧州人民党」の戦略転換が決定的要因となった。マンフレート・ヴェーバー党首率いる欧州人民党は、2024年6月の欧州議会選挙を見据え、戦略的なポジショニングの変更を行った。彼らは、農村部の有権者が環境規制への不満から、ドイツAfD、フランス国民連合などの極右政党に流れることを深く懸念した。そこで、自らを「農民の真の擁護者」として再定義し、SURと自然再生法に対して対決姿勢をとることを決定した。欧州議会内部では、環境・公衆衛生・食品安全委員会は削減目標を維持しようとしたが、農業・農村開発委員会はより柔軟なアプローチや農家への補償を求めた。委員会間の断絶は、法案の整合性を損なう要因となった。

運命を決したのは、2023年11月22日の欧州議会本会議での投票だった。この投票は極めて異例な展開を辿った。欧州人民党および右派・保守派グループは、本会議において法案を弱めるための多数の修正案を提出し、可決させた。これにより、削減目標の法的拘束力が弱まり、法案の実効性が著しく低下した。修正された法案は、緑の党などの環境派にとっては「あまりに弱すぎて無意味」なものとなり、保守派にとっては「依然として規制が強すぎる」ものだった。その結果、最終投票では左右双方から反対票が投じられ、法案全体が否決された。通常、否決された法案は委員会に差し戻されて修正協議が行われるが、議会はその差し戻し動議さえも否決した。これにより、SURは法案としての生命を絶たれ、事実上の「廃案」となった。

2024年2月6日、ストラスブールの欧州議会本会議において、フォン・デア・ライエン委員長は、SUR案の正式な撤回を表明した。彼女はこの法案が「分極化の象徴」になってしまったと認めた。

崩れゆくグリーンディールの柱

SURの撤回は、EUグリーンディール全体に波及する「ドミノ倒し」の始まりとなった。農民抗議の成功体験は、他の環境規制に対する反対運動をも勢いづかせた。SURと並ぶ生物多様性政策の柱だった「自然再生法」も、同様の激しい攻撃に晒された。欧州人民党と右派勢力は、この法律が農地を奪い食料生産を脅かすとして反対キャンペーンを展開した。最終的に法案は2024年2月に欧州議会を通過したが、その内容は大幅に修正されたものだった。特に、農業用地の再原野化に関する義務的目標は削除・緩和され、農民への強制力を伴わない形へと後退した。これは「成立」という体裁を保ちつつも、実質的な効果を大きく損なう妥協だった。

F2F戦略の総仕上げとして予定されていた「持続可能な食料システム枠組み法」は、食料システム全体に持続可能性の原則を法的に組み込む包括的な法律となるはずだった。しかし、SURの失敗と選挙前の政治的情勢を受け、欧州委員会はこの法案の提出を2023年末の期限までに実行せず、事実上の「棚上げ」状態とした。これにより、F2F戦略の法的基盤の多くが未達のまま残されることとなった。

「理想の押し付け」は失敗する

F2F戦略は、長期的には環境を守ることが農業の利益になると説いたが、短期的には農家にコスト増と収量減のリスクを負わせるものだった。SURが求めた農薬半減は、化学農薬に代わる有効な防除手段が普及していることを前提としていたのだが、それが追いつかない中で規制だけを先行させたことが、現場の反発を招いた。そして、SURを巡る対立は、都市部の環境意識の高い層と、農村部の生産者層との間の深い亀裂を露呈し、この分断は、極右ポピュリスト政党によって巧みに利用され、環境政策全般への反動を生み出した。環境政策はもはや「合意事項」ではなく、社会を二分する「闘争の場」となったのである。

実は、自動車分野でも「理想と現実のギャップ」に耐えきれず、政策が修正される事態となった。「2035年にエンジン車の新車販売を禁止する」という決定が、2025年12月大きく転換されたのだ。そこには、農業の事例と類似した理由があった。EV(電気自動車)の導入が雇用に与える影響 、中国製EVの台頭に欧州メーカーが太刀打ちできなくなったこと、そして、産業界や市民からの強い反発を受けて、欧州人民党などが修正を求めたことである。

EUの「グリーンディール」は、「理想を掲げて突っ走ったものの、経済や現場の実情に阻まれて軌道修正を余儀なくされた」という歴史的な転換点を迎えている。目を日本に転ずると、「みどりの食料システム戦略」は、F2F戦略を強く意識して作られたもので、農薬50%削減、有機農業25%など、目標数値も非常によく似ている。しかし、日本には「強制力」がないため、EUのような暴動は起きていない。これは「現場が変わらないまま、目標だけが浮いている」結果と言える。日本でも、「理想の押し付け」は失敗するという教訓を深刻に受け止める必要がある。