除草剤ラウンドアップ:ネットでの誹謗中傷に販売企業が損害賠償請求(その-1)
唐木 英明
東京大学名誉教授
はじめに
除草剤「ラウンドアップ」(有効成分:グリホサート)は、1974年の発売以来、高い安全性と有効性を兼ね備えた革新的な製品として、世界的な成功を収めた。しかし、その後は、遺伝子組換え(GM)作物との連携、物議を醸した科学論文、国際的ながん研究機関による評価、そして米国における大規模な訴訟へと展開する中で、現代社会における科学的真実、公衆の認識、法的戦略、そしてデジタルメディアが織りなす複雑な力学に巻き込まれ、いわれのない悪評が定着するという数奇な運命をたどった。そして、今、反撃が始まっている。ラウンドアップを製造・販売する日産化学が、インターネット上で誹謗中傷した投稿者に対して損害賠償を求める訴えを東京地方裁判所に起こし、勝訴したのだ。これまでの経緯をたどることで、デジタル時代における企業のリスクマネジメントの新たな課題を考える。
1 ラウンドアップ論争の時系列的分析
1974年、モンサント社は有効成分グリホサートを含む除草剤「ラウンドアップ」を市場に投入した。その作用機序は、植物に特有の酵素経路であうシキミ酸経路を阻害するものであり、動物やヒトには存在しないこの経路を標的とすることが、その安全性の根幹をなした。発売後の20年間、ラウンドアップは効果的かつ安全で、しかも散布後は速やかに消失することで環境にも優しい除草剤として、高く評価された。世界の評価機関は、グリホサートが適切に使用される限り、人の健康リスクはないと結論付け、150カ国以上で使用されるグローバル製品へと成長した。
1996年にモンサント社が「ラウンドアップ・レディー」と呼ばれる遺伝子組換え(GM)作物を商業化したことが、ラウンドアップの歴史における分水嶺となった。このGM作物には、大豆やトウモロコシなどがあり、グリホサートに対して耐性を持つため、畑全体にラウンドアップを散布してもGM作物は枯れず、雑草だけを枯らすことが可能になった。この画期的な技術は、ラウンドアップとラウンドアップ・レディー種子の双方の売上を劇的に増加させた。
しかし、この成功は同時に、ラウンドアップとモンサント社を、当時勢いを増していた反GM運動の主要な標的へと変貌させた。除草剤はもはや単なる化学製品ではなく、「世界の農業支配」の象徴となり、「反モンサント・デー」のような世界的な抗議行動では、同社のGM作物とラウンドアップが名指しで非難された。
この対立の構図を決定的に先鋭化させたのが、2012年にフランスの分子生物学者ジル=エリック・セラリーニが発表した論文である。この論文は、ラウンドアップ耐性GMトウモロコシ、またはラウンドアップをごく微量添加した水を2年間にわたりラットに与えたところ、対照群に比べて高い割合で腫瘍や臓器障害が発生したと主張した。論文には、巨大な腫瘍ができたラットの衝撃的な写真が添えられ、メディアを通じて世界中に拡散された。
論文の公式発表に先立ち、セラリーニは、メディアに対し、他の専門家の意見を求めることを禁じる異例の機密保持契約を要求した。これにより、メディアは、セラリーニの主張を一方的に報じることになった。この発表は、GM食品への表示を義務付けるカリフォルニア州の住民投票「プロポジション37」を前に、世論に影響を与えるタイミングを狙ったものであった。
論文が公開されると、実験計画が持つ致命的な欠陥に対して、世界の科学界から迅速かつ厳しい批判が巻き起こった。実験に使用されたSDラットは、加齢とともに自然に腫瘍ができ種類であり、観察された腫瘍は、自然発生の可能性が高いこと、発がん性を評価するには統計的に不十分な数のラットしか使用せず、毒性学の基本原則である「用量相関関係」が認められないことなどの問題である。この論文を掲載した学術誌は、内部調査の結果、その結論は信頼できないとして、2013年に論文を撤回した。セラリーニと彼の支持者たちは、この撤回をモンサント社からの圧力による言論弾圧であると主張し、論文はその後、別の雑誌に、査読を経ずに、再掲載された。その結果、規制当局や科学界から否定されたセラリーニ論文の衝撃的な画像と主張は、反ラウンドアップ運動の科学的根拠として定着し、今日に至るまで引用され続けている。
2 IARC評価のバイアスと利益相反の疑惑
2015年3月、WHOの専門組織である国際がん研究機関(IARC)がグリホサートを「ヒトに対しておそらく発がん性がある」(グループ2A)に分類したことは、論争の力学を根本的に変える転換点となった。この分類は、ヒトにおける発がん性の「限定的な証拠」(主に農業従事者における非ホジキンリンパ腫の研究)と、実験動物における「十分な証拠」に基づいて行われた。
IARCの結論は、世界の主要な規制機関の見解と真っ向から対立した。この乖離の一つの原因は、IARCの役割が、潜在的なハザード(危害要因)を特定することにある。「ある物質が、何らかの条件下で、がんを引き起こす可能性があるか?」という問いに答えるものであり、実際の曝露量や曝露経路は考慮しないのだ。グループ2Aには、グリホサートの他に、赤身肉の摂取、夜勤、65℃以上の熱い飲み物なども含まれている。他方、世界の規制機関は、「ある物質が、現実的な曝露レベルにおいて、ヒトにどの程度のリスク(危害の発生確率)をもたらすか?」という問いに答える、リスク評価を行う。これらの機関は、グリホサートが発がん性のリスクをもたらす可能性は低いと結論付けている。ところが、IARCの評価はメディアや市民の間で大きな影響力を持ち続け、規制当局の科学的見解を覆い隠すほどの力を持つことになった。
その後、IARCの評価プロセスに大きな疑惑があることが明らかになった。2015年のIARCの評価会議の時点で、グリホサートと非ホジキンリンパ腫との間に統計的に有意な関連性がないことを示す農業従事者健康研究(AHS)の最新データが存在した。ところが、評価を行ったワーキンググループの議長を務めた米国国立がん研究所(NCI)の疫学者アーロン・ブレア博士は、このデータをワーキンググループに提示しなかった。後の訴訟における宣誓証言で、ブレア博士はこの未発表データがあれば、IARCがグリホサートを「おそらく発がん性がある」と分類する可能性は低くなったであろうと認めた。この証言は、IARCの結論が、入手可能な最良の科学的証拠の一部を意図的に無視した結果であるという批判に火をつけた。しかし、IARCはこの疑惑を一貫して否定している。
もう一つの深刻な疑惑は、ワーキンググループに「招待専門家」として参加したクリストファー・ポルティエ博士が、ラウンドアップ被害者の代理人を務める法律事務所と金銭的な契約を結んでいたことである。ポルティエ博士は、IARCの評価会議が終了したわずか19日後に、原告側法律事務所とコンサルタント契約の草案を受け取り、その後正式に契約した。この契約により、彼は訴訟のための科学的助言を提供し、16万ドルもの報酬を受け取った。彼は、IARCの会議の2ヶ月前から、この法律事務所と接触していた。さらに、彼が議長を務めた2014年のIARC諮問委員会がグリホサートを評価対象として推薦した際、彼は別の案件で、後にグリホサート訴訟を手掛けることになる法律事務所のコンサルタントを務めていた。招待専門家という立場にもかかわらず、ポルティエ博士が評価に不当な影響を与えたという批判もある。IARCの評価が出た後には、欧州食品安全機関(EFSA)はこの評価に反対したのだが、彼は他の科学者たちを組織して欧州委員会に書簡を送り、IARCの結論を支持し、EFSAの評価を批判するロビー活動を主導した。
これらの疑惑は、IARCの評価プロセスが、外部の政治的・経済的利害関係の影響を受けたからという疑念を生じさせた。特に、IARCの結論が、その直後に始まる大規模訴訟の科学的根拠として利用されたという事実と、評価に関わった主要人物がその訴訟で金銭的利益を得ていたという事実は、IARCの評価の中立性に対する信頼を著しく損なうものであった。
3 米国の陪審員裁判の波
IARCの分類は、グリホサート反対派や弁護士にとっての「水戸黄門の印籠」になった。これさえあれば、グリホサートががんを引き起こしたという訴訟で勝てると見込んだのだ。IARCの発表直後から、米国の法律事務所はテレビコマーシャルなどを通じて、ラウンドアップを使用し非ホジキンリンパ腫を患った人々を原告として大規模に募集し始めた。これにより、数万件もの訴訟がモンサント社(後にバイエル社が買収)に対して提起されることとなった。
米国の陪審員裁判は、科学を再審理する場ではなかった。その代わり、陪審員が理解しやすい物語、すなわち「モンサントは発がんリスクを知りながら(その証拠としてIARCの報告書やモンサント社の内部文書が用いられた)、消費者に警告することを怠った」という主張に焦点が当てられた。法廷での立証基準は「科学的な確実性」ではなく、「ラウンドアップが原告のがんの『実質的な要因』であった可能性が、そうでなかった可能性よりも高い」という「証拠の優越」であった。米国環境保護庁(EPA)をはじめとする規制機関の安全評価は、モンサント社の不適切な影響力の結果であるとして、その信頼性が原告側によって巧みに切り崩された。
初期のいくつかの裁判で、陪審は原告を支持し、補償的損害賠償に加えて、企業の悪質とされる行為を罰するための巨額の懲罰的損害賠償を命じた。数万件の訴訟を個別に戦い続けることの財務的リスクに直面したバイエル社は、最終的に法的責任を認めないまま、既存の訴訟の大半を解決するために1兆円を超える和解金を支払うことに合意した。この巨額の和解は、一般市民の目には事実上の「有罪」と映り、ラウンドアップが危険であるという強力な社会的認識を決定づけた。
この一連の出来事は、科学的コンセンサスと、公衆および法廷における「真実」とが、いかに乖離しうるかを見事に示している。ラウンドアップをめぐる論争は、科学的な証拠の重みよりも、物語の説得力、用語の戦略的利用、そして法制度の特性が、結果を大きく左右する現代的な現象を浮き彫りにした。活動家と訴訟ビジネスが共生関係を築き、一方が生み出した社会的主張を他方が法廷で収益化し、その結果がさらに活動家の主張を正当化するという、自己増殖的な非難のサイクルが形成されたのである。
※(その-2)に続く