気候のティッピングポイントなど存在しない(その3)
「気候ティッピングポイントに関する混乱が気候変動に関する言説に与える影響」
シーバー・ワン
Co-Director of Climate and Energy at the Breakthrough Institute
しかし、よくあることだからといって、誤解が正当化されてよいわけではない。気候変動に関する話題の中でティッピング・エレメントが頻繁に取り上げられることを考えると、このトピックに対する歪んだ認識が、より広範囲にわたる気候変動への取り組みにどのような影響を及ぼしてきたかを明らかにしておく必要がある。
地球科学者が最近よく経験するのは、友人や新しい知人が緊張した面持ちでジョークを飛ばしながら、「それで、私たちはいったいどれくらい危機的状況に陥っているのだろう?」と尋ねてくることである。あるいは親戚が、北方の永久凍土や海底のメタンから突然大量の炭素が放出されるという脅威に関する記事を転送してきて、こう尋ねるかもしれない。「これ見たことありますか?これは本当ですか? 」と。このような日常的なやりとりは、避けられない悲惨な結果に対する、より大きな、一般的な人々の持つ感覚を物語っているが、同時に、物事は見た目ほど悪いものではないという答えや安心感を求める、暗黙の必要性があることをも物語っている。
実際、取り返しのつかないほど悪いわけではない。気候変動がもたらす結果は、まだ人類の力で緩和できる範囲にあり、適応によって、温暖化する世界の影響を軽減することも不可能ではないのだ。研究文献によれば、中程度の気候緩和の道筋であっても、永久凍土融解の速度と範囲を劇的に減少させ、氷床の長期的な損失を抑えることができることがわかっている。今世紀末の温暖化を2~3℃に抑えれば、海底に凍結したメタンハイドレートによる重大な気候変動のフィードバックリスクを実質的に排除できる。また、脱炭素化に向けた新しい進展と最近の排出シナリオに関する分析によれば、最悪の気候シナリオの可能性はすでに大幅に減少している。
確かに、だからといって楽観視することはできない。主要な地球規模の海洋循環パターンである大西洋南北熱塩循環(AMOC)のようないくつかのシステムにおいては、低または中程度の長期的な温暖化が及ぼす影響は、依然として不明確である。また、熱帯の浅いサンゴ礁の生態系は、1.5℃の温暖化でも生物多様性に深刻な損失を被る可能性がある。さらに、アマゾンの熱帯雨林の一部は、さらなる温暖化と森林伐採によってすでに深刻な脅威にさらされている。
しかしながら、気候に関する議論の場では、常に今が「やるか、死ぬか」「やるか、やらないか」の瀬戸際であり、完璧な気候変動対策をとるか、消滅するかの2つの結果しかありえないとされてしまっている。マドリードで開催された2019年国連気候サミットの冒頭で、アントニオ・グテーレス国連事務総長は不吉な警告を発した。「それはもう地平線の彼方ではなく、私たちの目の前にあり、私たちに向かって突進しているのだ」。そして昨年7月、彼はこう宣言した「私たちには選択肢がある。集団行動か、集団自殺か」。このような表現は、虚無主義と敗北主義を煽るものだ。
環境活動家にとって、気候変動に関するティッピングポイントはアドボカシーに有効である。ジャーナリストやコーディネーター、そして小説家志望だった若かりし頃の自分のような者は、際限のない修飾語や仮説、不確定要素とは対照的な、大義を掲げたストーリーに憧れる。政治家は、演壇でのハリウッド的な演出が大好きだ。傲慢な人類が取り返しのつかない事態を招き天罰が下るという物語には強力な説得力があり、歴史の正しい側に立つという名誉にも魅力がある。十字軍にとって、人類の終末こそは、行動を起こすために最も刺激的な物語なのだ。
しかし、時代や大義がどうであれ、十字軍は常に社会全体のほんの一部を代表しているに過ぎない。普通の人は、活動家が要求する気候変動対策という非常に達成困難な山道を見て、多くの気候運動団体や科学者が必要だと言っているほどに急激に排出量を削減することなどは不可能だ、と合理的に考えるものである。人類の未来の運命を前にして、無力であると知った彼らは、不安を抱えつつ、日常生活を続けることに戻ってしまう。誤った徒労感は、気候変動への取り組みにとって間違いなく有害であり、気候変動のティッピングポイントに関するより正確な理解は、このような絶望感と闘う一助となるだろう。
問題は敗北主義だけではない。ティッピングポイントへの不安は、即座に実行可能な解決策や政策にすべての関心を集中させることになるため、本当に脱炭素化のために必要な持続的で長期的な取り組みを阻害することになりかねない。
例えば、2100年までに1.5℃の地球温暖化を回避するために、よく言われるように「あと7年しかない」のであれば、実施に数年以上かかるような政策や技術、解決策は定義上無意味である。これには、原子力発電の拡大や、低炭素航空燃料、空気中の炭素の直接回収、高度な地熱エネルギー発電のような分野での技術革新を促進する努力が含まれる。IPCCのある査読者は次のように憂慮している「1.5 ℃という炭素予算が尽きるまでの時間枠では、まったく新しい技術が効果を上げるような形で市場に浸透していくには、十分な時間がないかもしれない」。さらに、洋上風力発電や 実用規模の蓄電池のような、広く賞賛されている多くの気候変動対策でさえ、2030年代までとなると、成熟には至らない可能性がある。
実際には、もっとも積極的な脱炭素化への世界的な取り組みでさえ、数十年かかる可能性が高い。この時間スケールは野心的な脱炭素化シナリオとも一致している。もちろん2030年代または2040年代に実用化されるような解決策も、必ずや排出削減に貢献できるだろう。また、2050年に最後の難関である数百万トンのCO2排出を削減する対策は、いますぐ温室効果ガス排出を削減できる比較的容易な対策に劣るものではない。
転換期から新たな行動へ
IPCCの第1作業部会による第6次評価報告書では、最近の文献から「今後100年間の地球気温の予測において、急激な変化が起きることを示す証拠はない(no evidence of abrupt change in climate projections of global temperature for the next century)」と素直に述べ、そもそもそのような変動が起こりうるかどうかについては「確信度が低い」と述べている。さらに、「生物地球化学的サイクルにおける突然の変化やティッピングポイントの可能性は、21世紀の温室効果ガス濃度にさらなる不確実性をもたらすだろうが、それらは将来の人為的排出に関連する不確実性よりも小さい可能性が非常に高い(possible abrupt changes and tipping points in biogeochemical cycles lead to additional uncertainty in 21st century greenhouse gas concentrations, but these are very likely to be smaller than the uncertainty associated with future anthropogenic emissions.)」と付け加えている。
気候変動は、依然として重要な地球規模の課題であり、それが世界的な排出削減努力の動機となっている。しかし、差し迫った大きな崖の代わりに、私たちが直面しているのは、温暖化が進めば進むほど、将来の気候に与える影響が大きくなるという坂道、いや、目盛りを書いた板(スライディング・スケール)とでもたとえられるのではないだろうか。気候変動の影響の多くは、人類の寿命の尺度で見れば不可逆的なものである一方で、地球が最終的にどの程度温暖化するのかということについては、人類が主導権を握っており、今後もそうあり続けるだろう。
地球が急速に崖っぷちに差し掛かっているわけではないことを知れば、ある種の違和感は生じてくるはずだ。この先に世界が破滅するような差し迫ったティッピングポイントがないのなら、すべての人々が救われるべきポイントもないことになる。つまりお互いに保証できる全体的な破滅のポイントがないということは、誰もが集団的救済を追い求める動機がというものがなくなることを意味する。気候変動という銃口が、何よりもまず世界で最も貧しく弱い人々に向けられていることが次々と明らかになっている以上、気候変動対策は不平等との闘いを優先させなければならない。
もうひとつの違和感は、人類が気候、エネルギー、食糧、経済その他の政策について、科学的不確実性が根強く残る中で重要な決定を下さなければならないことだ。ブラジルは、アマゾンの熱帯雨林にとって重要な閾値がどこにあるのか正確にはわからない状況の中で、森林伐採を制限するための対策を実施する必要に迫られるだろう。ヨーロッパは、大西洋南北熱塩循環(AMOC)が海洋の温暖化や塩分濃度の変化にどの程度敏感なのか、完全な確証がない中で、クリーンエネルギー政策を実行しなければならないであろう。また、私たちが排出する温室効果ガスの量によって気候がどの程度温暖化するかという気候感度に関する未知の部分が残っているため、温室効果ガスの制限をしたからといって、どのような気候になるのか、その結果を正確に保証することはできない。
このような不確実性に伴うリスクを最小化するために、より厳しい気候変動に関する具体的な目標を設定する必要性を強めるものだと、多くの人が強く主張している。しかし、それは、ティッピング・エレメントによる将来の気候変動リスクが正確に分かっていて、正確な閾値で発生し、我々にとって良くない未来か文明終焉の未来かの極端な二者択一を迫る、というのとは全くわけが違う。
私が10年以上前に書いた小説の草稿では、「人類は、その歴史的な進歩や功績にもかかわらず、滅亡の運命にある」と主人公が確信を持って悟る、メランコリックな回顧の瞬間を想像していた。同じような意味で、忘れていたのだが、当時高く評価された気候変動に関する映画『Don’t Look Up』について思い出した。気候変動を彗星衝突に見立て、それによりほぼ瞬時に終末の時を迎える世界的な脅威を描いていた。巨大な彗星の襲来は避けられないものであり、その危機的な閾値はすでに超えてしまったのだと人類が理解する、詩的な懺悔の瞬間が描かれていた。
現在私が考えるところでは、気候変動との闘いは、そのようなはっきりした瞬間を得ること無しに、何世代にもわたる長期的な闘いになるだろう。それは、太陽光発電所や原子炉の建設だけでなく、ラゴスやベンガルールのアパートに手頃な価格の冷房システムを配備したり、エチオピアやアフガニスタンに干ばつに強い作物品種を普及させたりする努力も含むだろう。人類は絶えず地球の気候条件を決定し、修正していくだろう。そして人類は、その条件の中で、より自由で公正で持続可能な現在と未来を築くために絶えず努力し続けなければならないのである。
いまはやりの俗論の感覚としては、気候のティッピング・エレメントとは、気候の善し悪しを、迅速かつ明確に、かつグローバルに判断する指標である。ただしティッピング・エレメントをより正確に理解すれば、人間と環境の幸せは、不確実な未来に直面した私たち自身が決定することになる。そして人類は、季節が変わり、潮の満ち引きがある限り、人間の数だけ判決が下るなかで、常に原告であり、被告であり、裁判官であり続けることになるであろう。