GX戦略は経済成長をもたらすか(その5)
~ GX-ETSが経済成長を阻害しないための条件(上)~
手塚 宏之
国際環境経済研究所主席研究員、JFEスチール 専門主監(地球環境)
1.はじめに
本稿シリーズ「GX戦略は経済成長をもたらすか」では、政府の掲げるGX戦略を日本の経済成長に繋げるために必須となる5つの条件について既に4回に亘り論じてきた。今回は(その5)最終回として、日本版排出権取引制度GX-ETSについて論じてみたい(長文なので(上)、(下)に分けて掲載される)。「(その1)~GX戦略のロジックと暗黙の前提~」で既に述べたように、政府が2026年から本格稼働を目指し制度設計の議論を始めているGX-ETSの制度設計にあたっては、当面のETSの排出削減対策に使える技術を持たず、まずは革新的なGX技術の開発を進めなければならない段階にある鉄鋼・化学・セメントなどのCO2排出削減が困難な多排出産業(いわゆる削減困難~Hard to abate産業)の削減努力を阻害しないような制度にすることが肝要となる。なぜなら日本がパリ協定の長期目標である将来のカーボンニュートラルを目指すのであれば、こうした多排出産業セクターが長期的にカーボンニュートラルを実現可能とするために、今は見えていない道筋を何とか具体化し、そうした業界内の企業が健全な経営を続けながらその実現に向けてあらゆる経営資源や努力を傾けていくことを後押しすることこそが、日本政府に求められているGX戦略の政策的課題だからである。
ところが制度検討されているGX-ETSは、そこに参加する企業に排出上限枠を設定していくCap&Trade型の排出権取引制度である。従ってこうした削減困難な多排出セクターの企業もこれに参加すれば、自主的であれ他律的であれ短期的な排出上限枠が設定されることになる。GX-ETSに参加した企業は、排出枠順守のために、安価な削減手段をもつことで余剰排出枠を捻出できる企業から排出クレジットを購入して自社排出量をオフセットすることが可能となる。そうすると目標達成が困難な排出枠を設定された企業は、排出権を市場で購入することで、自ら削減対策を行うより安く手軽に自社の排出量をオフセットして排出枠を順守することができるようになるのだが、これが削減困難な多排出産業の長期的なカーボンニュートラルの取り組みの妨げとなるのである。
2.排出権取引制度はカーボンニュートラル達成に有効か
排出権取引制度における「排出権」の購入は、お金を払うことで自らの汚染物質排出という行為を贖罪できる仕組みであり、これは中世キリスト教会で使われた「免罪符」と同様の機能を持っている。教会にお布施を寄進することで布教活動を支援し、その結果現世で犯した罪が(神から)許され、天国への道が約束される・・というのが免罪符の御利益(ごりやく)であった。中世ヨーロッパのカトリック教会は、この免罪符の販売収入を使って「神の家」である巨大なカテドラルを建設し、十字軍による数次にわたり異教徒討伐と聖地奪回のための戦役を行った。そうした教会活動をスポンサーすることで寄進者が現世の罪が贖罪されるというわけである。企業が市場で排出権を買うことで、自らの汚染物質(CO2)排出行為が贖罪されることになる排出権取引制度も基本的に同様の仕組みとなっている。
これを経済学的に見ると、自ら削減するすべを持たない(もしくは費用が掛かりすぎる)企業が、安価な削減手段を持つ企業に排出権購入代金というお金を渡すことで、自社の分まで目いっぱい割安な削減を進めてもらうことになる。これによって社会全体でみたとき、最低費用で目標とする削減量を積み上げることができるということになり、経済的に合理的・効率的な仕組みなのである。当面削減手段をもたない多排出企業は、他社の削減対策のスポンサー役を務めることで、自ら高いコストの削減対策を行わなくても削減目標を達成した(免罪される)とみなせるというところに、この制度の経済合理性がある。しかしこうした取引をいくら続けていっても、削減困難な多排出企業自身の事業活動から排出されるCO2を長期的に減らすことには全くつながらない。
Cap&Trade型の排出権取引制度は、かつての京都議定書の時代のように、国が一定年限までに一定の削減を達成するといった国際的な削減義務を負っていて(京都議定書の場合、日本は第一約束期間であった2008年から12年までの5年間に90年比6%の削減義務を負っていた)、それを国として最低コストで達成しようという場合の政策ツールとしては大変合理的なものであった。しかしこの制度は、「2050年までにカーボンニュートラル」のように「国内すべての活動からの排出量をできるだけ早く大幅に削減し、国全体で期限内にカーボンニュートラルを達成する」という政策目標には必ずしも適合しない政策ツールなのである。この場合、短期的な削減手段の限られた削減困難な多排出企業に対して求められるのは、排出権取引制度の下で安価な排出権(免罪符)を買って他社の削減活動をスポンサーすることではなく、現状では技術的にもコスト的にも困難な自社の排出量の大幅削減を可能とするような革新的な技術やプロセスを早期に開発・実用化し、それをできるだけ早く実装して2050年カーボンニュートラルに貢献することである。民間企業が持つ経営資源(人・モノ・金)は企業の事業収益から生み出される有限な資源であり、それを目先の排出枠の帳尻合わせとして排出権取引に使ってしまえば、その分長期的なGX技術の研究開発・実装に向けられるべき資源が減ってしまうことになり、結果的に社会全体のカーボンニュートラル実現を遅らせることになる。
企業経営の短期的な利潤最大化という経済合理性だけを考えれば、こうした多排出企業は高い費用をかけて自ら削減対策を行い短期的な目標達成をするよりも安く排出権(免罪符)が手に入るのであれば、当面は自ら対策を行う必要性がないことになる。しかし実際にはESG経営が企業評価の指標としてトレンド化している今日の経営環境の中で、GX-ETS制度に参加して2050年カーボンニュートラル目標を宣言し、2030年等の中期的な削減目標を自主的に掲げている企業の中で、排出権を免罪符のように短期的な目標達成に堂々と使うことをはばからない企業は少ないというのが現実だろう。
実際、2023年度に開始されたGX-ETSのフェーズ1(2023~2025年度)においても、政府は参加企業が自主的に2030年にむけた削減目標と、中間目標としての2025年度の排出削減目標を設定することを参加の要件としており、すでに参加している700余りの企業はそれらを順次公表している。GX-ETSの第1フェーズにおいては「自主的な」排出権取引制度ということで、各企業が掲げた目標は「必達目標」ではなく、目標未達の場合もペナルティが課されるわけではない。未達の場合「自主的に」市場から排出権を買ってオフセットすることは可能だが、それはあくまで自主的なものであり、自ら設定した目標を達成できなかった場合でも罰則は課せられるわけではない。ただGX-ETSでは、目標未達時に「なぜ達成できなかったかについて対外的に説明する」ことが求められており、企業は社会から経営ガバナンス上の圧力(いわゆるレピュテーションリスク)を受けることになる。革新的な技術開発に経営資源をかけて長期的なカーボンニュートラルにコミットをしている削減困難な多排出企業がその努力を続ける中で、自主的とはいえ自ら掲げたもともと達成困難な短期目標を達成できなかった場合、排出権を購入して埋め合わせざるをえなくなるといった事態も想定されるのだが、これではかえって長期の対策の推進を阻害してしまうことになる。
さらに政府は2026年以降のGX-ETS本格稼働(フェーズ2)に向けては、各企業の目標設定(排出枠設定)とその目標順守について、現在の自主的なものから、政府の指標に基づく何らかの規範性を持ったより厳格な目標設定を導入するとしており、その制度設計にむけた検討が始まっている注1) 。そこでは設定された排出枠が順守できない場合、企業は排出権を買うという形で課徴金を支払うことが求められるとされている。いよいよ企業にとっては超過排出量にカーボンプライスが課されることになるわけである。この場合、当面大幅削減を可能とする技術がない多排出企業については、政府指針によってどのような排出枠が設定されるかが大きな問題になってくる。
そもそもそうした削減困難な企業が、短期的に設定される排出枠の達成をフォローされるようなGX-ETSに参加すること自体が適切なのかという疑問もあるのだが、政府のGX戦略では革新的GX技術開発でGX経済移行債による公的支援を受ける企業はGX-ETSに参画することが要件となっているため、鉄鋼や化学など短期的に大幅削減ができない産業セクターの企業がGX-ETSにこぞって多数参加しているのが実情である。政府はそうした企業に対して当面の間、GX-ETSの中で十分に順守可能(未達となることのないような)な排出枠を設定し、事業活動を続けるのに必要十分となる排出権を無償で配賦していく必要がある。そうした企業ほど、困難なカーボンニュートラルへの移行に巨額の資金を含む経営資源を投入していく必要があり、それは基本的に事業活動から生まれるキャッシュフローから賄っていくことになるからである。多排出産業が短期的に達成困難な排出枠を設定され、その順守コストを負担して資金を食ってしまうような事態を回避し、有限の経営資源を長期的なGX技術開発・実証に傾注するように仕向けて、日本の産業全体で将来の大幅削減を可能とするような環境を整備していくというのが、国として長期的なカーボンニュートラル達成に資するGX政策ではないだろうか。
先行するEUではEU-ETS 制度の中で、政府が掲げた野心的な削減目標に沿う形でETS 対象企業に対して、厳しい漸減的な排出枠がトップダウンで設定されていて、超過排出の場合排出権を購入して埋め合わせることが義務化されている注2) 。ただEUでも、国際競争にさらされている鉄鋼・化学などの削減困難な産業に対しては、今までのところベンチマークに基づき必要十分な無償配賦枠が設定されており注3) 、企業にとっては超過排出とならず、過重なカーボンプライスにさらされないような配慮がなされている。カーボンプライスを課すことによって企業に削減インセンティブを課すという排出権取引制度の基本的な仕組みが、EUでも実態として緩和されてきたのである。この無償配賦を2026年以降、漸次低減して2034年に無償配賦ゼロ(全量オークション)に持っていく(つまり企業に漸次カーボンプライスを賦課する)ことが決まっており、それによって国際競争力を失う懸念のある産業への代償措置として炭素国境調整措置(CBAM)を導入することを決めている。
このEU-ETSの制度では、企業が無償で与えられた排出枠以下に実際の排出を抑えることで生じた余剰枠を長期的に「繰り越す=貯金する」ことができる仕組みになっている。そこで現実のEUの産業界で起きていることは、政府から獲得できる無償排出枠が将来漸減されてカーボンプライスにさらされることを見越して、ETSに参加する多排出企業はEU域内生産活動を域外に移転するなどによって抑制・縮小することで、無償配賦された排出権を余剰枠として積み上げていることが指摘されている注4) 。厳しい排出枠の設定や、将来それが強化される予見性は、必ずしも企業の削減技術開発・実装に繋がっていないのである。EU域内企業としては、ETSという政策的仕組みの中で経済合理的に行動しているともいえるのだが、結果的に生産の域外への流出や域内雇用の縮小といった形でEUの産業空洞化を助長しているものと考えられ、これを懸念・批判する声も上がり始めている注5) 。
3.日本のカーボンプライスの明示化
しかしGX-ETSの抱える課題はこの排出枠の設定の難しさだけにとどまらない。GX-ETSはその設置の目的の一つとして、日本で先行して行われている排出権取引制度であるJクレジットの取引、新たに始まるGX-ETSにおける余剰排出枠由来の排出権取引、さらに将来的には日本がアジア等の同志国と進めている二国間クレジット制度(JCM)の下で取引されるJCMクレジットの取引などをGX-ETSの下に一本化して、シンプルかつ単一のカーボンクレジット市場を国内に形成することを志向している。こうした統一化された市場メカニズムにより、日本のカーボンプライスを透明な形で国際的に明示化していこうというわけである注6) 。
この日本のカーボンプライスの明示化の背景には、先にあげたEUが導入するCBAMがあるものと考えられる。EUでは前述のように2026年以降、企業への無償配賦を漸減してカーボンプライス負担を強化していく中で、同じ2026年からCBAMを本格導入して、対象製品の輸入に対してEU-ETSの下で課されるカーボンプライスと輸出国で当該製品に課されたカーボンプライスの差額調整を行うとしている。このCBAMの制度詳細はまだ決まっておらず、現在は試行的なデータ報告・収集が行われている段階にあるが、国境での差額調整の対象となる輸出国側で課されるカーボンプライスとしては、炭素税やETS制度下で負担する排出権価格といった明示的なカーボンプライスに限定するといわれている。日本の場合、EUの定義する明示的なカーボンプライスは「地球温暖化対策税」に限られ、現行289円/t-CO2と低い水準にある。実際には日本には石油石炭税といった化石燃料諸税やFIT賦課金の形でのグリーン電力税など、間接的なカーボンプライスが企業活動にも重く課されており注7) 、また非化石証書の購入を通じたカーボンプライス負担も存在しているのであるが、そうした間接的なカーボンプライスがEUのCBAMの調整対象になるかどうかは今のところ不明であり、このままCBAMが導入されると、日本からEUへの輸出品に多額の課徴金が課される懸念が生じてくる。GX-ETSの下に単一の排出権取引市場を創り、日本のカーボンプライスを明示化するという動きの背景には、EU-ETSと類似した排出権取引制度を導入することで、将来日本の産業がEU-CBAM の下で不利な課徴金を課される事態を回避するための仕組みを準備しておくという政策的意図もあるものと思われる注8) 。
しかし多分にEUを意識して導入しようというこのGX-ETSの排出権取引市場で決まってくる「日本のカーボンプライスの明示化」によって、前述した鉄鋼や化学などの削減困難な多排出産業のGXにむけたトランジション(移行)のプロセスがさらに複雑化し、かえってその推進の妨げになる懸念が生じてくるのである。その点について以下に論じていく。
- 注1)
- 内閣官房に「GX実現に向けたカーボンプライシング専門ワーキンググループ」を設置し24年9月から議論を開始。
- 注2)
- 日本政府もEU-ETSに倣って何らかのベンチマークに基づいて各企業の排出枠を設定することを示唆している。
- 注3)
- EU-ETSでは2018年以降のフェーズ3に入り、国際競争のない電力セクターには無償配布を止め、必要な排出権を全量オークションで購入する制度になっている。これは電力の場合、太陽光、風力、水力、バイオマスといった再エネや、原子力といったすでに実用化され、大量導入が可能なゼロカーボン技術が存在しており、導入によって生じるコストアップも電力価格にコスト転嫁して発電事業者が回収可能になる制度的な枠組みがあることから電力に限って実施されている。
- 注4)
- https://carbonmarketdata.com/files/publications/EU%20ETS%202023%20Company%20Rankings%20-%2026%20June%202024.pdf
無償枠の余剰の発生には生産の海外移転だけでなく、コロナ禍や金融危機による経済活動低迷も寄与している。
- 注5)
- 今年9月にEUの委嘱に基づいて公表された「ドラギレポート」は、EUの厳しい気候変動政策がEU域内のエネルギー多消費産業の競争力が毀損していることを警告している。
- 注6)
- EUでは2026年から国境調整措置(CBAM)を本格導入し、対象製品の域内輸入に際してEU域内で同じ製品にEU-ETSの下で課されるカーボンプライスと、輸出国で当該製品に課されたカーボンプライスの差額調整を行うことになっている。
- 注7)
- 2017年に経済産業省がまとめた「長期地球温暖化対策プラットフォーム報告書」では、エネルギー諸税を含む日本の間接的なカーボンプライスの水準は約4,000円と、地球温暖化対策税の10倍以上になっているとされている。
- 注8)
- 実際にはCBAM対象製品である鉄鋼、アルミ、セメント等のEUへの輸出は少ないため、当面の影響は大きくないが、EUはいずれCBAM対象製品を拡大し、将来的には日本の主要輸出品である自動車などにも影響が波及する懸念があるため、対策を準備しておこうという意図があるものと思われる。