気候変動報道に忍び込む「危うい思想」、それは何か?


科学ジャーナリスト/メディアチェック集団「食品安全情報ネットワーク」共同代表

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 気候変動をめぐる一連の報道でとても気になるキーワードがある。「気候正義」と「人権侵害」という言葉である。本来、気候変動問題は「正義」や「人権」にからむ問題ではないと思うが、マスコミや環境保護団体は「正義」や「人権」を楯に解決策を見出そうとしている。「正義」や「人権」が登場すると、もはや反論の余地は少なくなり、言論の世界は一気にファシズム化(全体主義化)する。そういう危うい思想が気候変動問題の背後に隠れていることをもっと見抜く必要がある。

科学者が「人権」訴訟で法廷へ

 前回の記事で江守正多・東京大学教授(国立環境研究所上級主席研究員)が朝日新聞に登場したことを書いたが、そのあと、毎日新聞の1面トップ(10月9日付)にも江守氏が登場した。見出しに「気候科学者の覚悟」とあり、神戸市の石炭火力発電所をめぐる訴訟で江守氏が原告側(住民側)の証人として法廷に立ったという話が出てくる。
 私は「科学者はもっと行動すべきだ」と考えているので、その点では江守氏の勇気ある行動には共感を得る。私がこの記事で気になったのは、住民の原告側が二酸化炭素の大量排出を「人権侵害」だと訴えていることだ。
 その人権侵害だという訴訟で江守氏は証言台に立った。江守氏個人としては、科学的な根拠を挙げて、二酸化炭素をはじめとする人為的な原因が地球温暖化の主要因だとあくまで科学を論じたつもりだろうが、おそらく気候変動問題が「人権侵害」だとの意識はなかったのではないかと記事を読んで思った。
 科学者と市民活動家はやはり違う人種である。市民活動家は科学よりも価値観や世界観、つまり「正義」や「人権」を重視して行動する傾向があるからだ。どんな問題でも、「正義」や「人権」がからむと問題が複雑化し、イデオロギー闘争が始まり、社会の分断が始まる。

環境保護団体は「権利」を重視

 気候変動と人権に関して、新聞にもよく登場する平田仁子さん(元環境NPO「気候ネットワーク」理事でゴールドマン環境賞受賞)は、雑誌「地球温暖化」(2021年11月号、日経ビジネス出版)で「気候変動へ対応することは『人権』を守ること」と題した持論を展開している。その寄稿で平田さんは次のように書いた。

国連人権理事会は2021年10月、「安全でクリーンで健康的で持続可能な環境への権利」との決議を採択した。これによって、環境を守ることや気候変動を防ぐことは人権であることが共有された。・・・気候変動によって、洪水や干ばつ、森林火災などが起きて、途上国の人々、高齢者、女性、子供などの脆弱な立場にある人々が厳しい状況に追い込まれ、生存を脅かす環境被害が、幸福に生きる権利を侵害していることは疑いようもない(一部要約)

 神戸市の石炭火力訴訟に関しても、平田さんは「きれいな空気のもとで健康的に生きる権利(健康平穏生活権)が侵害されている」こと、そして「将来の地球温暖化の影響リスクに脅かされず、安定した気候のもとで暮らす権利(安定気候享受権)が侵害されていることが訴訟の焦点だ」と記している。

フランスの暴動をみよ

 終戦後から約70年間、日本人は経済成長の恵みをたっぷりと享受し、健康の面でも平均寿命が世界第1位というほぼ満足すべき健康的な生活を楽しんできた(もちろん、平均的な意味での話だが)。その約70年間で二酸化炭素が増えたとはいえ、気候変動との関連で人権が侵害されたという場面(住民が苦しんだ4大公害は気候変動とは無関係)が個々の人にあったのだろうか。
 「人権」という概念は欧米から来たものだが、現実を見ると、実によそよそしく観念的な概念にみえる。いま世界ではコロナ禍もあり、多くの人が仕事を失い、経済格差はますます広がっている。同時に、一握りの裕福な人たちが多くの富を独占する事態が発生している。そのことのほうがよほど深刻である。
 言い換えると、日本の人々のエネルギー事情を好転させる石炭火力の建設を訴訟で止めることのほうがよほど「人権」(電気やガソリンなどが合理的な価格で入手できる生活を指す)を軽視しているように思える。石炭火力発電の持続がどれだけ人々の生活に潤いをもたらしてきたか(これからも、潤いをもたらす)を考えると、人権侵害を叫ぶ人たちの感覚がどうにも理解できない。
 フランスを見よ。ガソリンを給油するのに何時間も並び、人々が言い争って、ケンカまでする暴動が起きている。フランス革命では「自由、平等、博愛」が高らかにうたわれた。しかし、いくら人権概念が進んでも、エネルギーが少し足りなくなるだけで、お互いが連帯する博愛精神など吹き飛んでしまう、このありさまである。
 「人権侵害」という武器をもてあそんでいられるのは、貧困を体感していない裕福な人たちなのだろうと思う。いくら気候が安定したところで、経済格差は何も変わらないだろう。いくら気候変動対策にお金を投じたところで、途上国の人々の生活を向上させるインフラ整備は実現しないだろう。
 「人権侵害」は、憲法が保障する人権を国家が侵害するときにも使うが、そもそも気候変動問題に「人権侵害」が登場すること自体に違和感を感じるのは私だけではないはずだ。

「気候正義」と「人権侵害」は兄弟

 もうひとつ気候変動報道で気になるのは「気候正義」という言葉である。
 気候変動の記事では、「世界各地で『気候正義』を求める声が広がっている」といった言葉によく出くわす。「知恵蔵mini」によると、「気候正義とは、人為的に引き起こされた国際的な人権問題であり、この不公正な事態を正して、地球温暖化を防止しなければならないとする考え方」とある。温暖化を引き起こした加害者の先進国が不公正な状態を正し、温暖化で深刻な影響を受ける途上国や次世代の人に対して、温暖化を防ぐ責任を果たすべきだという考えのようだ。
 ここでも「人権」という言葉が顔を出す。「正義」と「人権」は兄弟の間柄ようだ。この考えでいくと、温暖化を防止する側が「正義」になる。その反対に、「温暖化の原因はよくわかっていないし、地球の植生が増えるなど良いことも多い」といった懐疑的な見方は「不正義」か「人権侵害」派になる。
 そもそも科学的な論争がテーマの問題に「正義」という概念が馴染むのか疑問だが、気候変動問題を論じる環境保護団体やマスコミにとっては、気候変動問題はもはや科学の領域ではなく、地球を救うかどうかの倫理の問題という意識があるのだろう。だからこそ、環境活動家はゴッホの名画「ひまわり」にトマトスープを投げつけても平気なのである。自分こそが正義だからだ。

ポリコレと共通の臭い

 気候変動問題に倫理や哲学が関わる「人権」や「正義」を持ち出すことに、なぜ、危険な臭いを感じるかといえば、「ポリティカル・コレクトネス」(政治的な正しさ、いわゆるポリコレ)が世界で猛威を振るっているからだ。「人権」や「正義」の議論は成熟していけば、やがて「ポリコレ」に行き着くだろう。
 米国では人種差別やジェンダーの領域では、もはやポリコレに反論することすら難しくなり、ちょっとでも不用意な発言をしようものなら、マスコミから袋叩きにあい、社会から抹殺される事態になっている(「大衆の狂気」ダグラス・マレー著、「ポリコレの正体」福田ますみ著、「『アメリカ』の終わり」山中泉著、参照)。
 そのよい例は、森元首相の「女性の会議は長い」だろう。マスコミは欧米の著名な女性を登場させ、森元首相を袋叩きにした。あの惨劇をテレビで見ていて、私は、マスコミが警察的な取り締まり権力を発揮して、当事者をこの世から消し去る行為に見えた。これが正義のファシズム化である。英国の記者・作家のジョージ・オーウエルが書いた本「1984」に描かれた全体主義の世界は決して絵空事ではなくなってきた。
 アメリカでは、「お父さん」や「お母さん」という言葉も公式の場では使えなくなってきたという。お父さんが男とは限らないし、女性かもしれない。いや性は男でも、性自認(意識)は女かもしれない。となると、「パースン」(ヒト)しか使えない。しかし、これだって、「ロボットや動物も家族の一員として認めよう」という時代が必ずやってくるから、いずれは「パースン」でも、ポリコレ的に断罪される日が来ることだろう。
 気候変動問題の対処は、極めて科学的で技術的で経済的な問題であり、人権概念が登場する領域ではないと思うが、すでにポリコレ的な思想が忍び込んでいる。いったんポリコレが定着すると、そこに見えてくるのは反論を許さない「1984」の世界だ。
 そういう危うい思想的な背景に早く気付くべきだと思うが、どうやら政府までもが片足を入れ始めた。それが農水省の「みどりの食料システム戦略」である。
 前回の記事で、今回の記事でみどりの戦略の負の側面に触れると予告しましたが、まずは「人権」や「正義」に関する状況を押さえてからのほうがよいと判断し、次回の記事でさらに詳しく論じたい。