社員としての記者はどこまで自由なのか(下)
ー記者特有の「5つの行動原理」は多様な言論空間を守れるか!ー
小島 正美
科学ジャーナリスト/メディアチェック集団「食品安全情報ネットワーク」共同代表
新聞やテレビの記者たちは、そもそもどんなリスク観や価値観に従って取材し、記事を書いているのか。確かに興味深いテーマだが、実はこのテーマに関して、しっかりと調べた学術的な研究調査はないように思う。今回は、私の体験に基づく論考だが、理系の科学者とは相当に異なるリスク観に基づいて、記事を世に送っていることだけは確かである。
記者たちのリスク観を知るのにちょうどよい素材がある。子宮頸がんなどを予防するHPV(ヒトパピローマウイルス)ワクチンをめぐる報道だ。HPVワクチンは2013年4月から無料で受けられる国の定期接種になったものの、ワクチンの接種後に「全身の痛み」などの諸症状を訴えた女子たちが現れたため、わずか2カ月後に国は「積極的な接種の推奨を中止する」との判断をくだした。これをきっかけに接種率は約8割から1%以下に激減した。
なぜ、こうも激減したのか。新聞やテレビがワクチン接種の危険性を煽ったからだ。そして諸症状に苦しむ女子たちの様子を映像で何度も流し、ワクチンの怖さを過剰に伝えたからである。
記者の5つの行動原理
ではなぜ、ワクチンの有効性よりも危険性を強調し続けたのか。それはメディアの宿命ともいえる行動原理にある。その行動原理は以下の5つの原則から成る。
- ①
- 記者たちは「市民の共感」を重視し、弱者の立場に立つ(記者の共感バイアス)
- ②
- 記者たちは、ワクチンの危険性を訴え、世の中に警鐘を鳴らす「少数派の学者に共鳴する習性」をもっている(記者の使命感バイアス)
- ③
- 記者たちは、社会正義や被害者の救済を訴える市民団体や弁護士の正義感あふれるアクションに好意的に反応する遺伝子をもっている(記者の正義感バイアス)
- ④
- 記者たちは、政府を監視・批判するのが記者の仕事だと考えている(記者の権力監視バイアス)
- ⑤
- 記者たちは、自らの過去の記事の誤りに気づいても、容易には訂正しない習性をもつ(記者の自己保身バイアス)
これら5つの行動原理がすべて正常に作動したために、ものの見事にワクチンへの恐怖を煽り、接種率はほぼゼロに落ちた。危険性を煽っただけではない。実は、その後の2016年にワクチンの危険性を訴えていた学者の行ったマウス実験が、たったマウス1匹の実験で根拠のないものだったと判明しながら、メディアはその事実を葬り去ったのである。つまり、記者たちは過去の間違った報道を何ら訂正することなく、事実の究明よりも自己の利益(間違いを認めないこと)を優先したのである。そのいびつな状態は修正されないまま今日に至っている。
記者は「システム1」で動く
記者の行動は、行動経済学的な概念でも説明できるだろう。
ノーベル経済学賞を受賞した心理学研究者のカーネマン氏が「ファスト&スロー」(ハヤカワ文庫)で述べているように、人の思考や意思の決定には「感情的で直感的なシステム1」と「理性的・論理的なシステム2」の働きがかかわっている。
記者たちの行動原理である「弱者に立つ」「市民に共感する」「少数派の考えを重視する」といったスタンスは、システム1に基づくアクションである。明治時代に新聞が生まれてから、新聞や雑誌はこのシステム1の原則で動き、市民の共感を得ながら購読者を増やしてきた。
換言すると、記者たちは現場で感じた小さな声、苦悶、怒り、悲しみを社会に伝えることを使命としているため、全体像よりも個別的な事象を重視する。ワクチンの有効性という統計的な全体像よりも個別的な異常現象を拾う。安全な話よりも危ない話を好む。リスクの大きさには関心が低く、政府や会社の不祥事などにより関心を寄せる。
これらの行動原理は、経済的な貧困問題や格差、人権問題などを扱っている限りはそこそこ有効性を発揮するが、食や健康のリスクにかかわるテーマが相手となると、とたんに社会に混乱をもたらす。HPVワクチン接種がその最たる例であった。
もちろん、ワクチンに限らない。この行動原理の切れ味の悪さは、遺伝子組み換え作物やゲノム編集食品、残留農薬、食品添加物、事故を起こした福島第一原発の放射線リスクなどにもあてはまる。福島第一原発事故のあとに行われた子供たちの甲状腺がん検診で不要な手術を受けて苦しむ子供たちが出現したのも、過剰診断によるリスクをしっかりと伝えなかったメディアに責任の一端がある。
要するに、記者たちは安全な話よりも危ない話ばかりを探し出してニュースを作る。福島第一原発のタンクにたまるトリチウムを含む処理水に関して「安全だから安心してください」とは絶対に報じない。結果的に一般の人たちに届くのは危ない話ばかりとなる。
危険性の煽り具合は媒体間で差あり
ただし、前回で述べたように、記者たちの行動原理は普遍的でも、危険性を煽る実際の記事の程度は媒体によって異なる。たとえば、HPVワクチン報道では、朝日、毎日、東京新聞がかなり煽ったのに対し、読売と産経はその度合いは少なかった。たった1匹のマウス実験だったという驚くべき事実を詳しく報じたのは読売新聞だけであった。
この説明でお分かりのように、記者個人の行動原理とその記者が属する媒体の微妙な関係でニュースの煽り度は異なる。さらに言えば、記者がどの部署に属するかでも、煽りの度合いやリスクのスタンスは違う。
つまり、同じ記者でも、科学部の記者と経済部の記者とでは、報道するときのリスク観は全く異なる。私は生活報道部という部署で食の安全や健康医療、環境問題を主に担当していた。私が書いていた生活面(くらし面)は社会面と異なり、かなり記者個人の見方が反映される寛容さが許されていた。だから、原発事故後の食品に含まれる放射性セシウムのリスクは低いと堂々と書けた。もし私が社会部の記者だったならば、そのような安全性を強調する記事は書けなかっただろうと断言できる。
一般的に日本の記者は2~3年ごとに人事異動の対象となる。全く畑違いの部へ異動されられることも珍しくない。幸い私は約30年間、異動せず、生活報道部にずっといられる幸運に恵まれた。だから同じテーマを20年間も追いかけることもできたが、そういうケースはまれである。
結局、記者の行動原理は媒体を問わず、似たようなものであっても、どの部署にいるか、どの媒体にいるかによって、ニュースの煽り度は相当に差が出てくるのである。
主要5紙の健全なバランスが多様な言論空間をつくる
みなさんは、新聞社や通信社にいる記者が全国にどれくらいいるかご存じだろうか。日本新聞協会に加盟する新聞社・通信社(96社)に勤務する記者は全国に約17000人(うち女性約4000人・2021年4月時点)いる。100万部を超える購読数を誇る朝日、毎日、読売、日経、産経の主要5社だけでも優に5000人を超えるはずだ。
仮に5紙の記者が5000人としても、5000通りのリスク観がニュースとして量産されるわけではない。あくまでニュースに登場するのは媒体ごとのリスク観である。つまり、記者の数だけ多様な言論が存在するわけではない。科学部の記者と社会部の記者を比べれば、科学部の記者は科学的事実をより重視するだろうが、それでも、読売新聞の科学部のリスク観と朝日新聞の科学部のリスク観を比べれば、記者がそれぞれの媒体(組織)の枠を超えることは難しい。
結論。言論の多様性は媒体の多様性によって保障されていると言い換えてもよいだろう。健全な言論空間が実現するためには、いろいろなカラーの新聞社が必要なのである。つまり、朝日や産経のように両極にある媒体が存在して初めて言論の均衡が成り立つ。これは雑誌の世界でも同じだ。左派的な雑誌、右派的な雑誌のどちらも必要だ。
いくら一人ひとりがブログで意見を自由に発信できるデジタル時代になったとはいえ、やはり100万部を超える新聞媒体は多様な言論を守るうえで欠かせない。その健全な言論空間を維持するためにも、主要5紙をはじめ多様なメディア媒体が衰退しないように読者が支えていくことが必要不可欠だろう。