社員としての記者はどこまで自由なのか(上)


科学ジャーナリスト/メディアチェック集団「食品安全情報ネットワーク」共同代表

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 動画配信サービスのNetflix(ネットフリックス)で配信されているドラマ「新聞記者」が話題になっている。そのモデルとなっているのは、菅義偉・官房長官(当時)に食い下がった記者として知られる東京新聞社会部の望月衣塑子記者だ。これを機に新聞記者のリスク観や価値観(意図)と組織(新聞社)の関係、論理を、私自身の経験(1974年~2018年までの毎日新聞記者)から考えてみたい。

記事は記者1人で作るものではない

 そもそも記者はどこまで自由なのだろうか。一般には「記者は取材さえすれば、何でも書ける」というイメージをお持ちかもしれないが、そんなことは全くない。結論から言うと、記事は媒体組織(新聞社やテレビ、雑誌など)から出てくるものであって、一記者から出てくるものではないということだ。
 具体的な例を挙げよう。かつて、市民から嫌われている遺伝子組み換え作物に関して、「農薬使用量が削減され、米国やスペインの農家はみな組み換え作物を歓迎している」という現地ルポを出稿した。すると原稿をチェックするデスク(課長クラスの中堅ベテラン記者)は「これは本当なのか。この原稿だと市民団体から反発が来ることが予想される。遺伝子組み換え作物に反対する市民団体の反対論も入れて、両論併記にして書き直してくれ」と原稿を突っ返した。
 記者といえども組織の一員。デスクの要望に応じるしかない。
 それでも、両論併記の形で記事が新聞に載れば、まだよいほうで「動物実験で遺伝子組み換え作物は安全だと分かった」という原稿を出したら、ボツ(記事の不採用)になったこともある。

太陽光発電の限界を指摘する原稿はボツ

 別の例も挙げよう。太陽光発電の利用率は20%以下なので、バックアップ電源などを含めるとトータルのコスト(統合コスト)は高くなり、原子力発電に取って代わることは難しいという原稿を書いたときのことだ。デスクは「おまえは原子力に賛成なのか。もはや原子力を支持する国民は少ない」と冷たく言い放った。「いや、太陽光発電の限界を知らせることが原稿の趣旨なので、原子力への賛否とは関係ない」と言い返したものの、結局、原稿は日の目を見なかった。
 もちろん、太陽光発電の統合コストは原子力発電のコストを上回るという試算(2021年8月の経済産業省発表のように)を国が公表すれば、それはどの記者が書いても、記事は掲載される。国が発表したリリースなら、記者の意図とは関係がないため、デスクの関門をスムーズに通過する。
 もうひとつ例を挙げよう。毎日新聞や朝日新聞、東京新聞は他社(読売新聞と産経新聞)と比べて、子宮頸がんなどを予防するHPVワクチンの危険性を指摘する声を多く取り上げてきた。それに対する反論を識者の声を通じて記事にしょうとしたところ、「いまこの時期にワクチンが有用だと書けば、被害者団体から猛反発が来る。しばらく様子を見よう」と上司から言われ、記事にできなかった。
 とはいえ、毎日新聞社は、他社に比べると記者の自由度はかなり高い。他社の記者の体験話を聞く限り、それは事実だが、それでも、こういう苦い経験を味わった。私は記事を書く専門記者という「編集委員」(部長クラス)という肩書だったため、「小島さんは好きなことが書けていいね」と同僚からよくいわれたことがある。その意味では確かに比較的自由に書けたといえるのだが、それでも社論の壁(デスクの壁)は厚かった。

記者は組織という場に制約される

 これらの事例から、何が言えるだろうか。
 一記者が自分の思うままに原稿を書いて出しても、それがそのまま常に紙面に載るわけではないということだ。原稿の中身が社の論調や社説、デスクの価値観と合えば、スムーズに紙面を飾るだろうが、そうでないときは極めて記事が載りにくいというケースが厳然としてある。
 たとえば、福島原発のトリチウム水でいえば、記者が「トリチウム水を海に流しても人体や環境への影響はない」との原稿を出しても、それぞれの新聞社の社論やデスクの価値観に合ったように修正される。記者の自由は社論という壁を超えられない。
 記者も入社して4~5年たてば、社のカラーに染まる。どういう原稿を書けば、自分の社の論調に合うかが分かるようになるので、記者たちが日々苦しんでいるわけではない。しかし、朝日新聞の記者が仮に読売新聞的な論調に転換したときには、自分の意図する原稿が通らないことになる。社論と合わない価値観をもつ記者を幾人か知っているが、記者職からはずれるケースもある。
 この種の組織と記者の関係は、週刊誌の例を挙げるともっと分かりやすい。仮に私が週刊新潮の記者になったとしよう。自分の好きな原稿を書いても、そのまま載ることはないだろう。週刊新潮なりのカラーや方針の壁に阻まれるからだ。
 つまり、記者は自分で記事を好きなように書いているようにみえて、実は、組織が記者に書かせているのだ。記者1人で記事を作っているわけではないから、当然と言えば当然である。

「テセウスの舟」の寓話から何が言えるか

 では、この「壁」は崩せるのだろうか。無理だろう。
 哲学的な議論の寓話として「テセウスの舟」(テセウスはギリシャ神話の王)をご存じだろうか。ある漁師の舟がある。10年、20年と使ううちに舟は傷み、その都度、木の板や部品が修理・交換されていく。その舟を父から受け継いだ息子の代になると、舟の木や部品はすべて新しくなっている。しかし、その舟自体は父が使っていた舟と同じだ。おそらく息子は「この舟は父のものと同一だ」という感覚をもっているはずだ。材料が連続的に交換されていくと、舟という構造は何十年間も変わらないのだ。
 このことは新聞社やテレビなどの組織にもあてはまると思う。私が1970年代に入社したころの毎日新聞社の社員はすでに存在していない。約50年間で社員はすべて入れ替わった。しかし、社論や社風(伝統や遺伝子と言ってもよいだろう)はちゃんと保たれている。少数の記者がときどき反乱を起こそうとも、社という構造はびくともしない。週刊誌も同じだ。「テセウスの舟」に乗った記者は、舟とともに運命を共にする。
 では、その舟は永遠に生き残るのか。そんなことはない。舟の進む方向が時代に合わなくなれば、舟は沈んで消えていくのだ。かつて左翼の人たちに人気だった朝日ジャーナルは時代の荒波に飲まれ、沈んで消えた。
 一方、危機的な状況に直面すると、突如として舟が舵を切ることもある。おだやかな論調で知られた中日新聞(東京新聞)が原発事故を機に、急に左派的な方向に舵を切り、市民団体から熱烈な歓迎を受けるようになった。この先、東京新聞という舟に嵐が待ち受けているのか、平穏な海原が待ち受けているのか興味しんしんである。しかし、その舵を切った舟の中にいる記者はやはり新しい舟の方向を目指す記事を書くしかない。どこまでいっても、記者は舟の部品でしかない。