「ほどよい」環境の実現への転換と地方政府の課題
塩沢 文朗
国際環境経済研究所主席研究員、元内閣府戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)「エネルギーキャリア」サブ・プログラムディレクター
環境法令として画期的な内容の法律改正案が、現在開催されている国会(第204回通常国会)に提出されていることに、私は注目しています。その法律案とは、「瀬戸内海環境保全特別措置法の一部を改正する法律案」のことです。
私が注目しているのは、その法律改正の目的の一つが、人の活動に起因する汚染物質の自然環境への排出を減らすというのではなく、場合によってはその排出の増加を許容することによって、「ほどよい」環境状態の実現を目指すことにある点です。
この改正法案の背景について、環境省は、以下のように説明しています注1)。
瀬戸内海環境保全特別措置法は、平成27年改正時の附則において、政府は施行後5年を目途に栄養塩類の管理の在り方について検討を加え所要の措置を講ずること等とされていました。今般、これに基づく検討を行うとともに、同法の施行状況の調査を行ったところ、気候変動による水温上昇等の環境変化とも相まって、瀬戸内海の一部の海域では、窒素や燐りんといった栄養塩類の不足等による水産資源への影響や、開発等による藻場・干潟の減少、また、内海である瀬戸内海においては、大半の海洋プラスチックごみを含む漂流ごみ等が同地域からの排出とされており、これらが生態系を含む海洋環境へ与える悪影響が課題として明らかになったところです。
この中で、「瀬戸内海の一部の海域では、窒素や燐(りん)といった栄養塩類の不足等による水産資源への影響・・・(中略)・・・が生態系を含む海洋環境へ与える悪影響が課題として明らかになった」という部分が、私がこの法律案は「ほどよい」環境状態の実現を目指すものであると書いたことに関係する部分です。
これまで、窒素や燐は、瀬戸内海の富栄養化をもたらす原因物質として、その主な排出源となっている生活排水、畜産農業、一部の製造業や鉱業からの排出が規制されてきました。この規制は功を奏し、瀬戸内海への窒素や燐の排出量は大幅に減りましたが、その結果、それらの物質が果たしていた海洋生物の栄養源としての役割が低下し、水産資源の確保に影響が出てきたのです。これが規制内容を変更する理由の一つとなっています(なお、法律改正の理由としては、この問題とともに、藻場や干潟の減少、そして、最近、地球規模の環境問題となっている海洋プラスチックごみ問題への対応の必要性があげられています)。
窒素、燐といった栄養塩類が環境中で果たしている役割に着目し、それを踏まえて実情に即した制度の改正を行うというのは、当たり前と言えば、当たり前のことではありますが、これまでの規制手法から見るとその大きな転換といえます。少し乱暴な言い方かもしれませんが、これまでの「きれいな」環境の実現を目指してきた取り組みから、「ほどよい」汚れを許容することへの転換は、環境保全に関する考え方と取り組みを大きく変えるものでもあると思います。さらに、以下に述べるように、地方自治体の環境行政の実務に大きなインパクトを与えるものでもあります。こうしたことから、この制度改正案をまとめるために要した関係者の労力は大変なものであったのではないかと想像しています。それで、この制度改正は世間ではあまり注目されていないものの、環境行政の一時代を画すようなものと言えるのではないかと、私は捉えています。
私が考える地方自治体における実務上のインパクトとは次のようなことです。法律案の説明を見ると、この栄養塩類に関する「ほどよい」環境状態を目指すための措置として、「栄養塩類管理制度」が導入されることとされ、制度の内容は、以下のように説明されています。
関係府県知事が栄養塩類の管理に関する計画を策定できる制度を創設し、周辺環境の保全と調和した形での特定の海域への栄養塩類供給を可能にし、海域及び季節ごとに栄養塩類のきめ細かな管理を行えるようにします。これにより、生物の多様性の恩恵としての、将来にわたる多様な水産資源の確保に貢献します。
この制度の運用は、実務上はなかなか大変だと思います。まず、「周辺環境の保全と調和した形での特定の海域への栄養塩類供給を可能にし、海域及び季節ごとに栄養塩類のきめ細かな管理」を行うためには、各自治体がこうした管理の根拠となる科学的な調査、分析を実施し、その実施のための企画立案能力をもつことが必要となります。さらに、管理案に係る地域内(場合によっては、隣接地域)の利害関係者との管理水準等に関する利害調整を行うことが必要となる場合も出てくるでしょう。そのためには、関係する各自治体はこうしたことに従事できる能力をもった人材を確保・育成する必要があります。
地方自治体には、こうした専門的知識や能力を有する人材が数多くいるわけではありません。もうかなり前のことなのでその後の事情は大きく変わっていると思いますが、私自身が経験したことを書くと、約20年前に有害化学物質管理に関する制度設計に地方自治体の方々と取り組んだ際、市町村はおろか県庁にも化学の知識をもった人材が一人もいない自治体があることを知って、その実態に驚いたことがありました。
話題は少し変わりますが、エネルギーの世界では地域分散型エネルギー社会の構築や地域循環共生圏といった構想が次々と打ち上げられています。実際、日本が脱炭素社会に転換していくためには、地域の再エネ資源の活用を含めた地域エネルギーシステムの脱炭素化を図ることがきわめて重要です。しかし、4月19日付朝日新聞のトップ記事で報道されたように「ゼロカーボンシティ(2050年までにCO2の排出を実質ゼロにすると宣言した自治体)」のうち、実際に再エネの導入目標を持つ自治体はその約3割にとどまっており、CO2排出ゼロに向けた具体的、定量的な対策計画を有している自治体にいたってはほとんどないのが実態です。
私は現在、内閣府の戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)の「IoE社会のエネルギーシステム」の中で、「地域エネルギーシステムデザイン研究」(研究代表者:中田俊彦 東北大学大学院教授)をお手伝いし、地方自治体の地域エネルギー政策の実態を垣間見ていることもあって、この報道に驚くことはありませんでしたが、この研究に従事する中で見えてきた問題は、地方自治体における専門人材の不足と、(報道でも指摘されていたような)中央中心の制度設計が地方にもたらしているさまざまな制約です(さらに、エネルギーの場合には、地方自治体ごとのエネルギー需給データや再エネの賦存データ等の政策立案に必要となる基礎的な情報が整備されていないという問題もあります。これらの「地域分散型エネルギー社会」の構築に向けた課題については、また別の機会に書いてみたいと思います)。
これからは、地方の時代と言われます。地域によって異なる重要課題の解決と地域ごとの「ほどよさ」を追求するニーズは、これからどんどん大きくなっていくでしょう。今回、例に挙げた「瀬戸内海環境保全特別措置法の一部を改正する法律案」による制度改正は、限られた地域の限られた問題に関わるものにすぎませんが、これが嚆矢となって、中央中心の制度の変革と地域政府の環境・エネルギー政策の政策立案能力の向上につながっていくことを期待します。
- 注1)
- 「瀬戸内海環境保全特別措置法の一部を改正する法律案の閣議決定について」環境省、2021年3月26日、https://www.env.go.jp/press/109207.html