MENUMENU

新型コロナウイルスの非科学(3)

コロナパスポート


相馬中央病院 非常勤医師/東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 講師


印刷用ページ

前回:新型コロナウイルスの非科学(2)

偽陰性のリスクはコミュニケーションで減らせる

 日本臨床検査医学会では、巷間での無症状者への新型コロナウイルス検査拡大の流れを受け、7月末に下記のように注意喚起をしています。
「検査で陰性となった場合は、『検体に遺伝子検査で検出できるコピー数の SARS-CoV-2 が含まれていなかった』ことを意味する。そのため、検査で陰性であれば SARS-CoV-2 感染を否定できるわけではなく、感染初期で今後発症する可能性があることも含めて対象者に説明する必要がある。」注1)
 これはどういうことかというと、「陰性証明」のような、検査陰性の方が大手を振って歩けるような証明は本来出すべきではない、ということです。
「検査が陰性であればとりあえず安心ではないか」
という考えは、感染防護の視点からみれば一番危険な考え方です。前々稿で示した通り、検査陰性でも感染力を持つ方は存在し得るからです。これについては以前抗体検査キットを例に挙げて説明しておりますので、ご参照いただければと思います注2)
 実際に私の診た患者さんでも、感染者の配偶者で、発熱と嗅覚障害が出ているにもかかわらず、何度やっても検査は陰性だった、という方がいました。そういう方に「あなたは検査陰性ですから安心して渡航してください」とはとても言えません。
 臨床現場では、検査が陰性であった方には必ず、「検査陰性であっても少なくとも10日間はウイルスを持っていると思って行動をしてください」とお伝えします。同じ検査体制であってもこのコミュニケーションの有無一つで感染拡大防止へ与えるインパクトは大きく変わるでしょう。

コロナパスポートというミスコミュニケーション

 これと真逆の対策に当たるのが「コロナパスポート」です。これは渡航者に検査陰性という証明書類の提出を義務付けるシステムです。以前は抗体検査がこれに使われるという話でしたが、抗体検査の有用性が低いため、今はPCR検査や抗原検査が用いられる可能性が高くなっています。
 本来不可能である新型コロナウイルスの「陰性証明」を迫るという意味で、科学的には理不尽なシステムと言わざるを得ません。ではこのコロナパスポートの「非科学的」な価値は何なのでしょうか。
 それは海外で、検査の陰性証明の発行を求める動きが出ている、ということです。少し意味は違うかもしれませんが「郷に入っては郷に従え」という言葉があります。渡航先でそのような書類が求められるのであれば、経済を動かすためには渡航先の主張に従った検査体制を整えざるを得ないでしょう。国際的・対外的な体裁が、時に科学以上に重要なこともあるからです。

Science-informed policy

 政治の世界には「science-informed policy」(科学の情報を踏まえた政治)という言葉があります。以前は政治は「science-based policy」(科学に基づく政治)であるべき、とも言われていたようですが、政治の世界では科学的に正しくない判断をすることも時には必要です。あくまでサイエンスは政治的判断の一助である、という考えから、「science-informed policy」という言葉へ変遷したようです。
 私は政治には全く詳しくありませんが、政治と科学が常に同じベクトルを向くことがあり得ないことは分かります。コロナパスポートは恐らくこの「science-informed policy」の一種なのでしょう。

科学と政治の分立

 科学的に見れば、コロナパスポートは
「これだけのことをやったのに感染者が出てしまったのだから仕方がない」
という納得感を得る、形式的なものに過ぎません。これを推奨する人は、一旦科学者という立場から降りる必要があります。そうしなければ科学の方を歪めざるを得なくなってしまうからです。
 今の水際対策を含め、コロナ対策の多くは、科学的に見れば色々な矛盾があります。しかし政治的・経済的な観点から見ればそれが妥当なのかもしれません。政治は政治、科学は科学。政治の論拠を全て科学に求めるべきではないと思います。これが混然と扱われることにより政治的判断の責任が科学に押し付けられ、科学を曲げようとする動きが出ることを、私は最も懸念しています。
 科学者が政府と敵対する必要はありませんが、政治的決断に付随し得るリスク、例えば誤った安心感の危険などについては繰り返し伝え続けることは必要です。一方で政治や経済の専門家は
「科学的には妥当性を欠くけれども、政治的・経済的に仕方がない」
ことを明確にした上で決断を下せばよいと思います。その上で陰性と診断された方が安心しすぎぬよう、コミュニケーションの仕組みも同時に強化する。その自覚的なダブルスタンダードが、政治・経済・科学の健全な立ち位置なのではないかと思います。
 以上を踏まえた、「無症状者を検査すべきか否か」の天秤をしたのにまとめます。

健全な拮抗を

 フランスの哲学者、ブレーズ・パスカルの言葉に
「危険な行き過ぎが二つある。理性をただちに否定することと、理性の他は何もみとめないことだ。」
というものがあります。この「理性」を「科学」に置き換えれば、正に今の無症状者への検査についての議論に当てはまるのではないでしょうか。
 検査の判断は地位や直感、経験、あるいは利権や家庭環境など、個々人の背景によって異なります。場合によっては一人の人間の中でも矛盾した意見が対立するかもしれません。人は暮らしの中で色々な観点を組み合わせ、移動させて生きているからです。
 たとえば検査陰性であっても感染していない理由にはならないのだから、検査を行う意味はないという科学者がいたとします。そういう方が、自分の職場でクラスターが発生した時には無症状者にも検査を行うかもしれません。その時には同じ方が科学を離れ、社会的な立場からの判断をしていることになります。それは間違いとは言えません。しかし後者を科学的に正当化するために無理やり論文や科学的エビデンスを引き出してくれば、それは科学を欺くことになるでしょう。
 新型コロナウイルス対策に正解はありません。だからこそ、科学に全ての責任を負わせるべきではない、というのが私の考えです。
 一人の人間の中にも科学・感情・政治・家庭など様々な顔があり、それは科学者でも同様です。自分の中の非・科学を認め、そこから派生する多様性を認め、科学に責任を負わせることなく決断する。Withコロナの社会はそこから始まるのではないでしょうか。

注1)
https://jslm.org/committees/COVID-19/20200731.pdf
注2)
http://agora-web.jp/archives/2045105.html