コロナ危機と温暖化対策の行方(1)
コロナ危機は温暖化対策の光か影か?
手塚 宏之
国際環境経済研究所主席研究員、JFEスチール 専門主監(地球環境)
はじめに
新型コロナウィルスによるパンデミックが世界中で社会・経済活動をマヒさせている。各国政府は、目下国民の活動制限や自粛により感染拡大を抑え込むのに必死だが、一方で突然の経済活動停止により需要が蒸発し、失業者や企業倒産が溢れかえり、それを補填するために政府は莫大な資金を投じて支援策を講じ、瀕死の経済の血液循環(カネまわり)を支えている。ICU(集中治療室)に入っているのはウィルス感染の重傷者だけでなく、社会活動を担ってきた企業や個人事業者も、実質的に政府の提供する生命維持装置のもとで何とかコロナ禍が過ぎ去るのを待っている状況にある。
そうした中で、一筋の「明るい」ニュースとして国際エネルギー機関(IEA)が伝えたのは、コロナ危機の影響で今年の世界の二酸化炭素(CO2)の排出量が年率で8%と、大幅に減少するとの見通しである注1) 。国連環境計画(UNEP)が昨年11月に発表した報告書注2) によれば、世界の気温上昇を産業革命前から1.5℃にとどめるというパリ協定の努力目標を達成するには、世界全体で排出量を30年まで毎年7.6%削減し続ける必要があるという。偶然とはいえ、2020年にはこの大幅削減の数字を達成できることになる。
しかし喜んでいてはいけない。まずこのUNEPのシナリオでは、単年度の削減ではなく2020年から30年にかけての10年間、毎年7.6%ずつ削減量を上積みしていくことが必要とされているとうことである。つまり、UNEPの気候モデルを前提とした場合、コロナ危機で人の移動が制限され、飛行機は飛ばず車は走らず、多くの生産活動も休止するという20年4月時点で世界が行った規制を維持したうえで、更に同程度の削減効果のある活動制限を向こう10年間、毎年「追加的に」上乗せしていく必要があるということである。IEAの8%減の見通しが、各国が実施中の活動規制を何か月続けることを前提にして算定しているのか、その詳細は不明だが、仮に20年の試算前提が3か月の活動停止だとすると、21年には現状の経済封鎖を6か月に、22年には9か月に拡大するというイメージだ。23年以降は世界中の社会経済活動を今年の4月並み(一足先に封鎖解除した中国の場合は3月並み)に一年を通して制限した上で、さらにそれ以上に追加的な排出削減策が必要になる計算だ。はたしてそんなことが現実に可能だろうか?
もう一つ喜ばしくない現実は、この8%の削減を達成するために社会が負担したコストが莫大なものになるということである。世界中の航空会社は経営の危機に直面し、自動車会社も軒並み赤字となり、裾野の広い部品メーカーにも経営、雇用の危機が迫っている。飲食店や観光業界も壊滅的な打撃を被っている。米国では失業者が4000万人を超え、コロナ倒産や廃業が世界中で拡大している。エネルギー需要の激減で原油価格は暴落し、エネルギー・資源企業も軒並み格付けを下げて経営危機に直面している。UNEP報告書が指摘する1.5℃目標達成のために、2030年までに世界の温室効果ガス排出量を10年間で55%下げるということが、現実社会で具体的にどういうことを意味しているか、今回のコロナ危機がその現実の姿の片鱗を示していると見ることもできる。
本論考「コロナ危機と温暖化対策の行方」では、4回にわたって、現在進行中のコロナ危機が気候変動対策にもたらす様々な教訓や影響について論じていくことにする。先ず第一部の今回は、コロナ感染症がもたらしている経済危機が気候変動政策にもたらす影響の光と影について見ていくことにする。
コロナ危機を甘く見てはいけない
世の中はコロナ危機対策一色で、マスコミの報道ももっぱらコロナ感染対策と経済対策に独占されており、昨年末まで紙面を賑わしてした気候変動問題や温暖化対策は影をひそめてしまっている。しかしそれでも、時々見かける温暖化関連の記事や報道で取り上げられているのは、上記のようなコロナ危機によってCO2排出量が激減し、大気汚染が緩和されているという「コロナがもたらしたメリット」の紹介に加え、感染対策として否応なく導入されているテレワークや海外旅行自粛、ウェブ飲み会など、人々の行動変容がCO2削減にも有効となることも指摘されている。これを契機に人の移動やエネルギー消費を抑えたポストコロナ社会へ移行すべきであるとか、あるいはポストコロナの経済再生政策、景気復活対策として投入される資金をグリーン投資に振り向けて、一気に脱炭素化を進めるチャンスとするべき、といった、コロナ禍の「禍転じて福となす」という主張も散見される。さらに環境派の主張によれば、コロナ危機の教訓として、気候変動問題でもコロナウィルス対策と同様に科学の声に耳を傾けるべきであり、またコロナ危機でもパンデミックが発生する前に予防的措置をとっていれば、被害ははるかに小さく抑えられたはずであり、これは気候変動問題も同様であるといった論調も聞かれる注3) 。
確かにコロナ対策として否応なく普及しているテレワークやデジタルコミュニケーションは、人や物の移動を減らすことで温室効果ガスの排出の抑制に繋がることは事実である。しかし、これが地球温暖化問題を解決するという主張は、あまりに楽観的な前提にたっていないだろうか?筆者は必ずしも悲観論者とは思っていないが、コロナ危機の影響、特に経済にもたらすインパクトは尋常ではなく、IMFが指摘するように20世紀前半の大恐慌に匹敵するくらいの社会経済危機をもたらしかねないというのは、あながち大げさでもなさそうである。具体的な数字を持て見ると、例えばIMFのWorld Economic Outlook 2020では、コロナ危機の影響で20年から21年に世界全体のGDP損失は9兆ドル(990兆円!)に上る可能性があり、世界の経済成長率は19年の2.9%からマイナス3.0%へと6%も押し下げられ、特に先進国では20年の成長率はマイナス6.1%とリーマンショックを超えた景気後退を招くとしている注4) 。それだけではない。同じIMFの4月のFiscal Monitor April 2020レポートでは、各国がコロナ危機対策として未曽有の財政出動を行う結果、主要国の財政は軒並み悪化するとされている。先進国の政府債務は、GDP比で19年の105.2%から122.4%へと急増し、米国131%、イタリア156%と深刻な水準になり、中でも最悪なのは日本でGDP比252%もの借金を抱えることになるという注5) (これは4月上旬に発表された対策を前提としており、日本も含む各国とも追加的な大規模財政支援策を実施する構えを見せている中で、これらが更に拡大する公算が高い)。つまりポストコロナの世界では、ほぼすべての国の政府が莫大な借金や財政赤字に苦しむことになる。必然的に各国政府は長期にわたって緊縮財政と増税を同時に追求せざるをえなくなるだろう。
借金を抱える企業と政府
多くの企業や事業主も借金漬けに追い込まれることは免れない。3月14日付のCNNビジネスによれば、そもそもコロナ危機発生以前から、世界の企業は長期に続く低金利の市場環境の下で、社債等による負債を拡大してきており、その総額は09年の48兆ドルから19年末には75兆ドルにも膨らんでいるという注6) 。そこに今回のコロナ危機が襲い、消費・販売が蒸発してしまったため、運転資金や固定費負担のために借金をさらに増やさざるを得ない状況に追い込まれている。従来から雇用を固定費と位置付けてきた日本の大企業の場合、一時的に財務を悪化させても雇用を維持するため、大企業からの失業者は比較的低く抑えられているが、従業員を変動コストと位置付ける欧米企業では、短期間で解雇や雇止めが急増し、失業者が溢れかえっている注7) 。コロナ危機が長びくことでこうした過剰債務を抱えていた企業の財務がさらに悪化し、資金繰り難、倒産に繋がれば、それだけで経済危機をまねくだけでなく、金融機関にとっては、本来コロナ危機前に健全であった企業に対する債権が突然不良債権化することを意味しており、急激な信用収縮を引き起こし、今は比較的安定的な金融の世界においても、リーマンショック以上の金融危機というコロナ危機第二波が発生することになりかねない。
戦争や災害による経済危機の後には、復興投資が行われ復興需要が生まれて、それが景気刺激策となって経済が急回復するということが期待される。しかし、コロナ危機がそうした復興ケースに当てはまらないのは、コロナ感染症は企業活動を止めてしまっているものの、企業の生産設備や社会インフラを物理的に破壊はしていないということである。需要が喪失したために設備は止まっているが、供給能力はそのまま維持されている(国際的なバリューチェーンが寸断されて、マスクや自動車のように供給能力に支障をきたした例もあるが、物理的に生産能力が失われたわけではない)。日本の戦後の復興期のように、灰燼に帰した生産設備を最新鋭の設備に更新し、交通網や公共施設などの社会インフラを構築しなおすことで莫大な公共投資が行われ、しかもそれらが世界の最先端の技術によって再建されることで生産性が向上し、それが雇用や需要を拡大して景気拡大をもたらすという好循環がまわる、という図式はポストコロナの経済再始動シナリオでは考えにくいだろう。むしろコロナ危機によって負債を膨らませた企業は、可能な限り設備投資を抑制して、コスト削減や生産性向上など短期的にリターンの期待できる限定的な投資に絞って行わざるを得なくなるのではないだろうか。しかも医学の専門家の共通認識では、コロナ感染の短期のパンデミックを克服できたとしても、治療薬やワクチンといった抜本的な対策が準備できるまでには少なくとも1年から2年はかかるという。それまでは人々には行動制限が課されることになり、従来の活動水準、消費水準まで戻るには時間がかかることになる。そうした先の見通しにくい状況の中で、企業は積極的な設備投資はできるだけ控え、今ある設備の延命をしながら減価償却を進めて債務を減らし、財務の健全性を取り戻そうとするはずである。一方、コロナ対策で財政赤字を膨らませた政府については、当分の間、緊縮財政・増税路線を余儀なくされるとすれば、公共投資の拡大にも一定の抑制がかからざるを得ない。
温暖化対策に向けた投資は遅れる
パリ協定の掲げる気温上昇を2℃、できれば1.5℃に抑えるという目標を達成するためには、温室効果ガスの大幅な排出削減が必要であり、それを化石燃料にエネルギー供給の8割以上を依存している現在の世界で実現するためには、世界全体でエネルギー供給、利用システムの全面的な入れ替え投資や、企業の生産システムの刷新、一般家庭やオフィス、公共施設など建築物の高度な省エネ設備の導入、情報通信システムによる生活や働き方の抜本的な変革等が必要であることは、ほぼコンセンサスとなっている。こうした前例のない広範囲かつ莫大な規模の投資を、世界中で2030年~50年に向けてむこう10~30年のスパンで実施していくことが必要となるのだが注8) 、残念ながらコロナ危機で巨大な負債を負うことになる世界の政府、企業や個人、さらには今後しばらく続くであろう深刻な不況が誘発しかねない金融危機への懸念がくすぶる金融界が、そうした積極的かつ大規模な投資=リスクマネーの投入を展開することは考えにくいのではないだろうか。コロナ危機は、投資による温暖化対策という面から見た場合、かつてない絶望的な影を落とすことになるのではないかと懸念する。
- 注3)
- コロナ危機が温暖化対策にもたらす教訓については、本論考シリーズの3.環境と経済-相克か両立か で詳しく論じる。
- 注7)
- 日本の4月の失業者数は178万人と政府から発表されているが、米国の失業者数は4000万人と、その20倍以上に上っている。日本企業はリーマンショック後の景気回復期に内部留保を積み上げ、それが積極投資不足と批判される局面もあったが、生産設備などの事業資産が借金や株主資本に寄らず自己利益によって積み上げられてきた結果、コロナ危機に際して「固定費」である従業員の解雇を避ける財務的な緩衝材の役割を果たし、日本全体の失業率の増加を抑制しているということは評価されてよいのかもしれない。
- 注8)
- EUでは2050年に向けたEUグリーンディール政策において、官民合わせて総額規模1兆ユーロの投資を行う計画としている。また現行の2030年までに90年比40%削減の目標達成のために、追加的に年間2600億ユーロの投資が必用になるとされている。コロナ危機がこしたEUのグリーン政策に落とす影については、次編で詳しく論考する。