新型コロナウイルスにみる排斥と科学主義


相馬中央病院 非常勤医師/東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 講師

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 前稿前々稿では、新型コロナウイルス感染の分からなさを受け入れ、一人一人が感染リスクと感染を避けることによるリスクを天秤にかけて選ぶ重要性について述べました。
 リスク選択に正解はない。それは、自身のリスク選択に責任を持つことだけを意味しません。一番難しいのは、自分と異なるリスクを選択する他者について不正解の審判を下さないことです。

ランナー忌避にみる差別の構図

 最近東京では、外で走ったり運動したりする人たちが皆マスクを着用しており、たとえ人との距離を空けていてもマスクを着けずに走っていると罵声を浴びせられることすらあります。
 ランナーが危険視されるようになったきっかけは、ジョギング中の方からは遠くまでエアロゾルが飛ぶ、という試算が動画と共に世間に流されたことのようです。「理論上エアロゾルが飛び得る」という計算が「ランナーから感染し得る」「ランナーは新型コロナを広げるから危険」という感情へと発展し、人と一瞬すれ違うだけであってもランニング中のマスク着用を強要するような風潮に至ったように見えます。
 しかし、実際にランニング中の方が新型コロナウイルスを広めるエビデンスはありません。また、ゆっくり歩く方や同じ場所に立ち止まって喋っている人よりもランナーの方が人にうつしやすい、という報告もありません(もちろんうつさない、というエビデンスもありません)。
 公園の遊具や小銭の受け渡しについても同様のことが言えます。新型コロナウイルスは金属表面で何日も感染力を保つらしい。だから金属でできている遊具や小銭からもうつるかもしれない。念のため遊具を禁止しよう、小銭は触れないようにしよう、という発想です。実際には新型コロナウイルスは乾燥すれば不活化しますし、風雨にさらされる外の遊具と実験室の整えられた環境のデータを一緒にはできません。しかし、数式や動画に裏打ちされた「わずかな可能性に対する恐怖」から「念のため」の回避が積み重なることで、広範な自粛や禁止活動へと発展するのです。

「念のため」に潜む危険

 リスクは高めに見積もって避ける方が安全ではないか、と考える方もいるでしょう。しかし、他者に対して課す「念のため」は、容易に「危険である」にすり替わり、「排除せねばならない」という差別へと発展し得ます。
「子ども遊具くらい多少の不自由をさせても問題はないだろう」
という感覚で始められたマスク着用の「推奨」が、
「万一子どもが感染を広げることが判明したら、責任が取れない」
「危険の芽は全て潰すべきだ」
と、いつの間にか公園で子どもが遊ぶこと自体の忌避にまで発展している例がみられることからもそれが分かります。そしてランナーや遊具程度なら大した影響がないから排除してもよいだろう、と考えるうち、その「許されない境界」はどんどん拡大してしまうのです。
 今、医療関係者や長距離トラックの運転手などのお子さんが登校・登園を拒否される、という事例が起きています。また県外ナンバーの車が入場拒否される、自粛を守れず感染した方の家に石を投げ込む、など、ある特定の集団を狩り出しては攻撃する行為もしばしば報道されるようになりました。
「あの集団は危険かもしれない」と考える人が一定数を超えると、多数決を頼みにしてそれらしいグループを排斥する。これは多くの差別の原因となる危険な兆候です。「念のため避けた方が…」と感じた時にこそ、私たちは立ち止まって考える必要があると思います。

リスクは算数ではない

 特定グループの排斥は、しばしば数値を用いて正当化されることがあります。つまりあるリスクに数値による境界線を引き、境界の「向こう側」は危険、「こちら側」は安全、とする考え方です。このような数値による分断は、原発事故後の福島における被ばく線量の上限設定、帰還の基準となる空間線量設定などの際にも繰り返し起きました。
 リスクがしばしば統計や数式を用いる為、リスク選択は「算数」だと思われがちです。しかし、たとえば前述の「ランナーがエアロゾルを放出し得る」というデータは、数字自体が安全・危険の性質を持っているわけではありません。危険か否かを決めているのは人間の感情なのです。
 いくら知識と数式を積み上げても、いかに客観的な数値を集めても、日常生活でリスクを「回避すべきか否か」という選択には正解も不正解もありません。個々人が価値観を元に選び取るという点では、リスク選択は算数ではなく国語、あるいは哲学の問題だからです。
 リスクの「算数」に拘りすぎる人は、自分の納得できる「正解」に当てはまる数式や数値を探し出し、この正解に準ずる行動をとらない人を断罪しがちです。そして、この情報化社会において、正当化のための数値を見つけ出すことはあまりにも容易なのです。

「科学リテラシー欠損」という思い込み

 数値による正当化を好む方々のコミュニケーションの特徴は、他の方が論理的なリスク選択をしないのは科学が理解できないからだ、と思いがちである点です。
 原発事故の後、放射能についての勉強会を繰り返しても一部の住民の共感・安心・納得が得られなかったことはよく知られています。その伝わらなさの理由を
「科学リテラシーの欠如」「計算ができない感情的な人々」
と、住民側の能力不足に帰する認識が、とくに科学者の間でよく見られました。しかし、実際には、十分な安心を得られなかった方々の多くは、科学が理解できなかったわけではありません。そこで説明される「科学」が自分の暮らしを肯定してくれない、と見切りをつけただけなのです。
 これと同じ誤解が今回のパンデミックでも起きているように思います。人が「きちんとした行動」を取れないのは動態モデルや計算式を理解しないからなのだ、と数値を理解しない人々を揶揄・蔑視するような言動も見られるからです。
 前稿で示した通り、今般のパンデミックにおいて100%信頼のおける数値・数式は存在しません。数値を知れば正しいリスク選択ができる、と思いこむことは、数字だけではなく決断や思考までをも科学に頼む、誤った科学主義とも言えるでしょう。

排除が生む感染リスク

 正解から外れた集団を排除しよう、とする行動には、倫理以外にも問題があります。それは、
「この集団を排除している限り自分は安全でいられる」
という誤った安心感を持ってしまうことです。
 どこかにゼロリスクという領域があり、ある行動規範を守る自分たちは「こちら側」にいて、排除される行為・人々は「あちら側」にいる、そんな安全域はどこにも存在しません。この安心感はむしろリスクを高める結果にもなり得ます。
 たとえば1980年代にエイズ(ヒト免疫不全ウイルス感染による免疫不全状態)が流行し始めた当初、エイズはゲイの性交でのみうつる、という偏見のためにゲイの方々が迫害されたことがありました。その偏見が続くことで、日本では男女間の性交時の感染予防がむしろ遅れ、一時期女性のエイズ患者が急増してしまいました。これもまた、性癖という境界を引くことで、「こちら側は安全」と思い込んでしまったことによる感染拡大と言えるでしょう。

ケガレと科学主義

 何かを排除すれば安心、というそのようなゼロリスク信仰はどこから生まれるのでしょうか。日本においては、古来ある「ケガレ」の文化が科学主義と相まって、この潔癖を増強しているように見えます。
 日本の医療現場は「白い巨塔」という言葉に示される通り、街中にありながら社会から隔離・隠蔽される空間とされてきました。これは医療者が権威維持のために構築した文化だと思われがちですが、権威主義が弱まった現在でも日本ではその文化が色濃く残り、今でも治療方針を医療者に預けてしまう方は他の先進国より多い、とよく言われます。これは日本社会が老病死というケガレを病院という空間に隔離した結果、畏れと共にタブー化してしまったからではないか、というのが私の認識です。日本で死生観教育が浸透しない理由もまた、老病死をケガレとして直視を避けてきた結果なのではないでしょうか。
 そのようなケガレとリスクを混同することにより、本来自分で選び取るべきリスクも「みんなで祓うべきもの」に転化してしまっている。現代社会ではその祓うべき対象を決定しているのが予測モデルや計算がはじき出す数値という境界なのではないか、というのが福島の放射能忌避・今般のコロナウイルス忌避を見てきた感想です。つまり、数値に頼り、境界を作っている限り、私たちはその先にある病・死というリスクが「誰にでも起こり得ること」という事実を直視できないのではないでしょうか。その結果排除すれば安全、という安心感にすがることをやめられないのではないかと思います。

「大所高所の視点」が引き起こす差別

 このように直視を避けてタブーを排除する方々の多くが
「自分こそが大所高所でものを考えられる人間なのだ」
と自負している、という点にも注意が必要です。
「人に害を及ぼし得る選択は過ちである」
「迷惑を及ぼし得る行為については行動の自由は制限されるべきだ」
排斥運動の多くは、このように「他の人に害となる過ちを正そう」という正義感から生じています。
 また組織におけるリスクマネジメントを個人のリスク選択と混同する人々も多くいます。このような方々は、組織と同じく人々の生活のリスクもまた選ぶのではなくコントロールするものだ、と考えてしまっている為なのかもしれません。
 原発事故後の福島においても、福島は危険だ、「食べて応援」は殺人行為だ、などの発言が無数に見られました。これらの発言の多くが「無知な人々を放射能から守る」「自分こそが弱者を代弁している」という正義から発せられていたことを、今改めて思い出していただきたいと思います。
 犯罪の取り締まりが法律や警察という第三者に任されている理由は、「自警」が容易に「社会の無駄を排除する」という危険思想へつながるからです。リスクをコントロールしよう、という正義の延長には暴力があることを、私たちはもっと自覚すべきなのかもしれません。

責任は自分にあり

「では誤った行動をして他の人が感染したら、『責任』は誰がとるのだ」
他者のリスク選択行動の許容の話をすると必ず出る意見です。原発事故後の福島でも、自己責任で山草を食べる人々に、「それを見た人が真似したら責任が取れるのか」という非難がありました。これもまた、人々は啓蒙されるべきである、という大所高所論の一つのように思えます。
 自分から見れば誤っているリスク選択をする人が、自分のすぐそばにいる。そのリスクの責任を負うべき第三者は存在しません。強いて言えば、コントロール不能のリスクが溢れる社会に生きる私たち個人に責任がある、と言えるかもしれません。
 もちろん自己防護のために他者を攻撃する、という人もいるのでしょう。しかしどんなに数に頼んでも、世論に頼んでも、その攻撃はその人自身が「正しいから」ではなく「嫌だから」やっているに過ぎない行為です。
 排斥する自分自身もまた無知で、偏り、過ちを犯す人間であると自覚すること。パンデミックという恐怖の中、ゼロリスクという神話に飲まれず生きる第一歩は、そのような謙虚から来ているのかもしれません。