再び2050年ネットゼロエミッションについて
有馬 純
国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授
「COP25雑感」においてグテーレス事務総長が旗を振っている2050年ネットゼロエミッション目標について批判的コメントを書いた。本稿ではもう少し突っ込んでみたい。
全球削減目標策定の経緯
世界全体の排出削減目標という発想は新しいものではない。2006年第一次安倍内閣は「クールアース50」で全球半減目標を打ち出した。2008年のG8洞爺湖サミットでは全ての締約国が2050年に世界全体の排出量を少なくとも半減するとの目標を共有するとの文言が盛り込まれたが、その直後に開催された主要経済国首脳会合では中国、インド等の反対により共同声明に長期目標の数字は盛り込まれなかった。2009年のG8ラクイラサミットでは「我々は2050年までに世界全体の排出量の少なくとも50%の削減を達成するとの目標を全ての国と共有することを改めて表明する。その際、我々は、このことが、世界全体の排出量を可能な限り早くピークアウトさせ、その後減少させる必要があることを含意していることを認識する。この一部として、我々は、先進国全体で温室効果ガスの排出を、1990年又はより最近の複数の年と比して2050年までに80%またはそれ以上削減するとの目標を支持する」との文言を盛り込んだ。G8諸国は地球全体の目標として2050年半減を打ち出す一方、先進国が率先して排出削減をするとの趣旨を込め、先進国全体で80%減というパッケージを提示したのである。我が国の長期目標2050年80%減の淵源はここにあり、昨年2050年ネットゼロエミッション目標を打ち出した英、仏、独等もそれまでは2050年80%前後の数字を掲げていた。しかし途上国は相変わらず数値目標にはネガティブで、同年に開催された主要経済国首脳会合共同声明では「枠組条約の究極目標に鑑み、コペンハーゲンのCOP15までの間に2050年までに世界の排出量を大きく削減する目標を決める」との抽象的な文言が入るにとどまった。COP15の失敗を経て2010年のCOP16で2020年までの枠組として採択されたカンクン合意では産業革命以降の温度上昇を2℃以下に抑えるとの温度目標は盛り込まれたが全球削減目標については「枠組条約の長期目標及び究極目的に鑑み、2050年までに世界の排出量を大きく削減する目標を定め、COP17において検討する」とされた。COP15までに定めるとされていたものがCOP17に更に先延ばしされたのである。
このように筆者が温暖化交渉をやっていた頃から全球目標の議論はあったが、途上国は先進国が80%減という全球平均よりも深掘りする目標を打ち出し、率先垂範する姿勢を示しても、全球目標のシェアには乗ってこなかったのである。努力目標であろうと全球目標を決めてしまえば、先進国の目標値を差し引くと途上国の排出分が算出されてしまう。これから経済成長をしようという途上国がそのような形でタガをはめられることを嫌うことは当然とも言えよう。
パリ協定と全球目標
時代は下ってパリ協定交渉を控えた2015年のG7エルマウサミットでも欧州諸国の強い主張により「今世紀中の世界経済の脱炭素化のため、世界全体の温室効果ガス排出の大幅な削減が必要であることを強調する。それに応じて、我々は世界全体での対応によってのみこの課題に対処できることを認識しつつ、世界全体の温室効果ガス排出削減目標に向けた共通のビジョンとして、2050年までに2010年比で最新のIPCC提案の40%から70%の幅の上方の削減とすることをUNFCCCの全締約国と共有することを支持する」との文言が盛り込まれた。しかし途上国の数値目標に関するポジションは相変わらずで、パリ協定では温度目標として従来の2度目標に加え、1.5度が盛り込まれたものの、削減目標という点では「締約国は、第二条に定める長期的な気温に関する目標(注:温度目標)を達成するため、衡平に基づき並びに持続可能な開発及び貧困を撲滅するための努力の文脈において、今世紀後半に温室効果ガスの人為的な発生源による排出量と吸収源による除去量との間の均衡を達成するために、開発途上締約国の温室効果ガスの排出量がピークに達するまでには一層長い期間を要することを認識しつつ、世界全体の温室効果ガスの排出量ができる限り速やかにピークに達すること及びその後は利用可能な最良の科学に基づいて迅速な削減に取り組むことを目的とする」という表現に落ち着いた。「今世紀後半」という形で時期に幅をもたせ、「排出量と吸収量の間のバランス」という形で排出量の絶対水準を曖昧な形にしたところに苦心のあとが見える。
グテーレス発言の意味合い
このような経緯を振り返れば、グテーレス事務総長が2050年カーボンニュートラルの旗を振るのはいかにも乱暴である。2050年全球半減目標の頃は先進国と途上国で段差をつけるとの提案が可能だったが、2050年全球ネットゼロエミッションとなれば先進国も途上国もない。途上国の排出スペースを確保するために先進国で膨大なネガティブエミッションを行うというのは絵に書いた餅に過ぎない。更に2050年ネットゼロエミッションとあわせてグテーレス事務総長が主張している2030年に2010年比45%減という数字の意味合いを考えてみよう。
航空、海運を除けば2010年のOECD、非OECD諸国の排出量合計は294.5億t-CO2だった。これを2030年に45%削減すると162.0億t-CO2になる。このうち全OECD諸国がEUのフォンデアライエン新体制の提案している90年比▲55%に右へ倣えしたとするとOECD諸国の2030年時点の排出量は49.7億トンに抑えられる(2010年比▲60%、2017年比▲57%)。差し引きすれば非OECD諸国の排出量は112.2億トンになるが、途上国の排出量はこれまで増大してきているので2010年比で▲34%、2017年比で▲44%削減しなければならないことになる。これに対してIEAのWorld Energy Outlook 2019のレファレンスシナリオであるStated Policy Scenarioでは非OECD諸国の排出量は2017年から2030年にかけて19%増大することが見通されているのである。19%増と44%減の違いは124億トン(中国の全排出量の1.2倍)にのぼる。
グテーレス事務総長の言う2030年45%減というのはそういうマグニチュードの数字なのである。中国、インド、東南アジア等、これから経済成長する国々が一顧だにしないのも当然であろう。それどころかグテーレス事務総長がCOP25初日に2050年カーボンニュートラル、2030年2010年比▲45%を慫慂するステートメントを行った後、途上国系のThird World Networkのイベントでインド、中国等の主要途上国はグテーレス発言を厳しく批判した。インドの交渉官は「炭素中立性を語る際、衡平性の観点が置き去りにされている。途上国は彼らの持続可能な開発を達成するためのスペースを必要とする。緩和行動の結果が衡平なものであるためには、途上国が成長し、持続可能開発を達成することが必要である。先進国が累積排出量の面で最大の排出国であり、率先して削減をすべきである」と述べている。グテーレスが笛を吹いても2050年ネットゼロエミッションの鍵を握る主要途上国は全く踊っていないのである。
このような状況を考えると、ネットゼロエミッション目標をおまじないのように唱える国連、EU、島嶼国、環境NGOの現実感覚に強い疑問を感じる。念仏を唱えていれば現実が変わるものではあるまい。これでは負けが込んでいるにもかかわらず、地図上に絶対防衛線を引いていた戦争中の大本営と同じではないか。