日本への越境大気汚染の事実を私たちはどのように受け止めるべきか


上智大学大学院地球環境学研究科 准教授

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1.越境大気汚染を一歩引いて広い視野でとらえてみる

 前回の投稿記事「どこまで改善しているのか、中国のPM2.5 大気汚染と越境大気汚染」においては、日本国内で観測されるPM2.5濃度は減少傾向にあり、中国においても直近6年間に一貫して改善してきていることから、日本への越境大気汚染は軽減してきていると評価することができる旨を述べました。
 一方、改善傾向にあるとは言え、九州などの西日本で濃度が比較的高い状況にあり、汚染物質の越境流入自体が否定できないとなると、やはり西日本在住者にとっては心配の種となるかと思います。大気汚染物質は健康リスクをもたらすのは事実です。しかし、その事実に対して一歩引いてみて、こうしたリスクを広い視野でとらえてみると、受け止め方も変わってくるのではないでしょうか。例えば、国内の汚染発生源等のその他の要因を見ること、より長い時間軸で見ること、そして我々の生活上の様々な健康リスクと併せて見ることで、見え方も変わるのではないでしょうか。

(1)国内の汚染発生源やその他の要因

 環境省微小粒子状物質等専門委員会(第8回:2018年3月)の資料においては、日本において全体として改善傾向にあるものの、近年PM2.5の高濃度事例が観測されるところ、その要因として、越境大気汚染の他に、国内の自動車排出ガスの影響、逆転層などの気象の影響、工場密集地域といった特定の固定発生源の影響、更には野焼きに代表される草木等のバイオマス燃焼による影響があると指摘されています。このように、国内の汚染発生源による影響が存在している上に、気象要因なども絡み合って濃度上昇をもたらしていることを念頭に置く必要があります。決して海外からの流入ばかりではないのです。

(2)大気汚染をより長い時間軸で見ること

 前回の記事で紹介した大気汚染物質拡散シミュレーションSPRINTARSを開発した竹村俊彦・九州大学応用力学研究所教授は、PM2.5による大気汚染の改善は実はごく最近のことであるとしています。PM2.5が環境基準として設定されたのが2009年であり、全国レベルでの測定が始まったのが2010年以降であるため、PM2.5濃度の長期の推移を示すデータは無いのですが、竹村教授は、PM2.5と関係の深い煙霧に関するデータが参考になるとしています。図1は東京と福岡の気象台が観測した煙霧及び黄砂の時間であり、この煙霧は現在では「ほとんどはPM2.5の高濃度」だとされていますが、これを見ると、左のグラフが示すとおり、東京は1990年代以降、煙霧が長時間観測されており、規制強化や技術発展に伴い、1990年代半ばを境に大きな減少を見せ、2000年代半ばから低濃度の状況が続いていることが判ります。一方、右のグラフは福岡の同期間における推移であり、東京のような減少傾向は見出されません。
 しかし、ここで注目すべきは両グラフの縦軸のスケールの違いであり、1990年代は東京の方が圧倒的に長時間の煙霧を記録していることが判ります。竹村教授は、「近年では九州での越境大気汚染が知られるようになりましたが、2000年頃までの東京の空気の方がよっぽど悪かったということを、このデータは示しています」と評しています注1)。高濃度のPM2.5は都市部では長い間、そして最近まで身近にあったものだということを念頭に置くと、見方が随分変わるのではないでしょうか。

(図1)東京及び福岡における煙霧及び黄砂が観測された年間積算時間

(図1)東京及び福岡における煙霧及び黄砂が観測された年間積算時間

(3)他の健康リスクとの関係で見ること

 健康リスクについてもより広い視野でとらえることが重要です。大気汚染は健康上のリスクをもたらすものであることは間違いありません。WHOの専門組織である国際がん研究機関(IARC)は、PM2.5を含む大気汚染物質がもたらす発癌リスクを、5段階のリスクのレベルのうち最高レベルに分類しており、十分注意することが必要です注2)
 一方、PM2.5ばかりを敏感にとらえ、他の要素への注意がおろそかになってしまうことがあれば、リスク評価のバランスを欠いてしまいます。例えば、この最高レベルであるグループ1の中には、大気汚染の他に、たばこ、アルコール飲料、太陽光暴露、加工肉といった因子も含まれており、私たちの生活には身近なリスクが少なくないことが判ります。特にたばこの副流煙は高濃度のPM2.5をもたらすものであり、喫煙可能な喫茶店内では、一本目の喫煙で700㎍/m3という超高濃度に急上昇することが記録されています注3)。北京に位置する米国大使館内のモニタリングのデータによれば、一時間値で700㎍/m3超を記録したことは、2014年に0回、2015年に1回、2016年に1回であり、この数値が如何に高いかが伺い知れます。大気汚染も、こうした身近なリスクと並べて、全体として評価していく必要があるのではないでしょうか。

2.日本が深刻な大気汚染公害を経験したということの意味

 日本が1950年代以降、急速な工業化に合わせて深刻な大気汚染公害を経験したことは、私達が決して忘れてはならない歴史です。下の写真が表す通り、当時は住宅に隣接する工場群や、増加する自動車やトラックからばい煙が吐き出され、子供達も逃げ場はありませんでした。国内で排出された大量の汚染物質は甚大な健康被害をもたらしつつ、偏西風に乗って絶えず東の太平洋沖に流れていったのです。まさにかつて日本が経験したことを中国も経験しているのだということが言えるでしょう。

(写真)東京都環境局ウエブサイト、写真集 記録 「東京の公害」、「昭和46(1971)年 『東京の公害」写真コンクール作品』

(写真)東京都環境局ウエブサイト、写真集 記録 「東京の公害」、「昭和46(1971)年 『東京の公害』写真コンクール作品」

(写真)四日市市ウエブサイトより、四日市ぜんそくに苦しむ患者(撮影:澤井余志郎氏)

(写真)四日市市ウエブサイトより、四日市ぜんそくに苦しむ患者(撮影:澤井余志郎氏)

(写真)東京都環境局ウエブサイトより、写真集 記録 「東京の公害」、「昭和30年代 場所不明」

(写真)東京都環境局ウエブサイトより、写真集 記録 「東京の公害」、「昭和30年代 場所不明」

(写真)在中国日本大使館ウエブサイトより、「北九州市の大気の状況」(北九州市提供)

(写真)在中国日本大使館ウエブサイトより、「北九州市の大気の状況」(北九州市提供)

 そのような経験をした日本として、現状にどのように対処すべきでしょうか。筆者は前向きかつ建設的な協力の展開こそが答えだと考えます。ここで、東京農工大学大学院の畠山史郎教授が述べられていることを引用します。「越境大気汚染については、たしかに中国が大きな発生源で、大陸に近い九州をはじめとする地域では影響が大きいのですが、それでも日本への影響は限定的とみていいと思います。中国国民への影響がはるかに深刻なのですから、日本への影響を何とかしてくれと騒ぎ立てるより、我々がもっている科学や技術の情報や経験を伝え、影響を軽減できる方向に進めるよう助言することが適切と思います」。注4)筆者もこれに賛同します。そして、こうした建設的な協力姿勢は、SDGs(国連持続可能な開発目標)の17番目「パートナーシップで目標を達成しよう」という目標にも合致しているのではないでしょうか。
 現在、日中間の政府、地方自治体、事業者、研究機関、NGOといった様々なレベルで、日本の公害克服の経験や技術を活かした環境協力が、日中の各地で展開されています。こうした協力が更に発展し、成果を上げていくことを筆者は期待してやみません。

注1)
ヤフージャパン記事「日本での長期的なPM2.5濃度の傾向」(2016年5月)
https://news.yahoo.co.jp/byline/takemuratoshihiko/20160528-00058160/
注2)
WHO, IARC, “Monographs on the identification of Carcinogenic Hazards to Humans”
(https://monographs.iarc.fr/list-of-classifications-volumes/)
注3)
一般社団法人禁煙推進学術ネットワークウエブサイト「喫煙とPM2.5」より
http://www.kinennohi.jp/pm25/index.html
注4)
EICネット(運用:一般財団法人環境イノベーション情報機構)、「第39回 東京農工大学大学院・畠山史郎教授に聞く、PM2.5をはじめとする越境大気汚染の生成過程と対処方法」、2015年3月20日
http://www.eic.or.jp/library/challenger/ca150320-2.html