カーボンプライシングをめぐる議論の行方
大規模導入は雇用・経済の基盤を揺るがす恐れも
手塚 宏之
国際環境経済研究所主席研究員、JFEスチール 専門主監(地球環境)
一般的な普通鋼電炉業では、粗鋼1トンの製造に約700kWhの電気を要する。従って電気料金が1円上昇すれば、粗鋼1トンの製造コストは700円上昇する。一方、粗鋼1トン当たりの経常利益は2010~16年度の平均で2092円であり、電気料金が1円上昇すると経常利益の約33%が失われることになる(図2)。
鋼材は国際的な市況製品であり、隣国の中国が世界の約半分の鉄鋼を製造し、かつ膨大な余剰生産能力を抱える中、日本の国内事情だけで価格転嫁することはできない。電炉各社はFIT賦課金の減免の対象になっているが、減免されても2017年度の賦課金負担は0.5円/kWh強である。これは電炉事業者の経常利益の16%強に上り、決して軽い負担ではない。
電力料金上昇の結果、すでに電炉業では震災以降3社が事業撤退を余儀なくされた。また、事業所の象徴である電炉を休止した会社が3社、工場閉鎖が1社と、経営への影響は深刻である。他の電力多消費産業でも、鋳物業では震災以降58社が倒産・転廃業に追い込まれ、チタン製造業では、新たな生産拠点を電力コストの安い海外に求める企業も出てきている。
今後、新たに明示的なカーボンプライシング施策を導入すれば、すでに国際的に見て高いわが国の電気料金が一層上昇することは必定である。前述したように、足元でさえ厳しい状況にある中、さらに国内の電気料金が上昇すれば、体力を削がれた電力多消費産業にどのような影響が生じるかは明らかだろう。
工業製品を作る国と買う国の違い
次に、モノを造ることとモノを使うことの違いから、明示的なカーボンプライシング施策の意味合いを考えてみたい。環境省の「カーボンプライシングのあり方に関する検討会」では、炭素生産性が高い国の例としてノルウェーが例示されているが注5)、ここでは鉄鋼業を例に、日本とノルウェーの違いを概観する(図3)。
日本の粗鋼生産量は1億1060万トン、ノルウェーは61万トンである。1人あたりの粗鋼生産量は、ノルウェーの119kg/人に対し、日本は7倍の869kg/人である。ここから鉄鋼の直接輸出入と間接輸出入(自動車など最終製品に組み込まれた鋼材の輸出入)を加味すると、鋼材の国内実消費量が得られるが、日本は4811万トン、ノルウェーは2922万トンで、人口当たりだと、日本378kg/人、ノルウェー573kg/人となる。
つまり、1人当たりの粗鋼生産量では圧倒的に少ないノルウェーだが、ノルウェーの国民は日本人以上に多くの鉄鋼製品を国内で使用しているのである。ちなみに、ノルウェーでは国内で自動車を1台も生産していないが、自動車保有台数は日本と同じ602台/千人である。
環境省の報告書で、世界トップクラスの実効炭素価格を課しているとされているノルウェーは、自国で鉄を製造しない一方、自動車などの形で鉄を輸入することで、自国産業からのCO2排出量を大幅に抑えている。しかし、これでは単にごみを自宅の玄関先から外に掃き出しているようなもので、どこで製造を行うか=排出するかの違いでしかなく、地球全体で見たときの温室効果ガス排出削減には寄与しない。
ちなみに、ノルウェーは電力の約95%を水力で賄っており、豊富に産出する天然ガスと石油の大半は輸出され、外貨を稼ぐのに貢献している。こうした国で明示的炭素価格が課されても(同国では1991年から炭素税を導入)、もともと炭素排出がゼロである電力のコスト上昇は発生しない。こうした国情の違いを踏まえずに、モノづくりで国富の多くを生み出し、かつエネルギーの一定割合を化石燃料に依存している日本で、明示的なカーボンプライシングを大規模に導入し、エネルギーコストを意図的に引き上げれば、産業競争力が失われ、雇用・経済の基盤を揺るがす事態を招きかねない。
国民は対策の便益を受けられるか?
最後に、日本でカーボンプライシングを導入することで、国民はどんな便益を得られるのかということを考える。
カーボンプライシングによりコストペナルティを課せば、温室効果ガス排出抑制が期待できるのはその通りだが、それによって日本国民が目に見える便益を受けられるわけではない。温暖化対策を目指す施策の最終的な便益は、地球温暖化の抑止による気候変動被害や影響の低減にある。しかし、これはあくまで地球全体で起きる便益であり、日本が単独で対策を進めても日本の温暖化だけが抑止されるわけではない。つまり、気候変動被害の回避という便益を日本国民が享受するには、世界全体で日本と同等の取り組みが行われ、その結果、地球規模で削減が進むことが前提となる。
カーボンプライシングは有効な温暖化対策であり、世界の潮流であると主張する環境省の報告書の中で紹介されている、日本より高い実効炭素価格を導入している国(ほとんどが欧州連合諸国)を全部合わせても、世界全体の温室効果ガス排出シェアの1割にも満たないとう現実は、こうした前提を不確実なものにしている。
わが国の温室効果ガス排出量の世界シェアは4%を切っており、わが国の排出がたとえゼロになっても世界の排出量の大勢に影響はなく、国民に温暖化抑止の恩恵を届けることはできない。
パリ協定の枠組みの中で、国内での温室効果ガス削減対策を着実に進めることは重要で、産業界も低炭素社会実行計画を通じて、日本の2030年削減目標の実現に向けた取り組みを進めている。しかし、国内対策の強化策として新たなカーボンプライシング施策を導入すれば、エネルギーコスト上昇を招き、産業の国際競争力に影響を与えることは必至で、国際的なバランスの中でその賦課水準を考慮する必要がある。特に日本の場合、国際貿易の多くがアジア太平洋地域で行われていることから、北米を含む環太平洋地域の諸国と調和のとれた対策をとっていくことが必要である。
つまるところ、カーボンプライシングを今後の温暖化対策の施策として検討するのであれば、国内対策の観点のみから考えるのは間違いで、世界全体の温暖化対策の取り組み状況、近隣諸国のカーボンプライシングの賦課水準の比較の中で、どのような水準の施策が公平で有効・適切か、慎重に考えていく必要がある。
- 注5)
- 環境省「カーボンプライシングのあり方に関する検討会」とりまとめ(平成30年3月)P22