最終話「IAEA事務局長」


在ウィーン国際機関日本政府代表部 公使

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 「理事会指定理事国」は原子力分野における最先進国10カ国(日、米、加、英、仏、独、露、中、豪、西欧1カ国(ローテーション))と地域先進国3カ国(印、南ア、ブラジル又はアルゼンチン)からなる(ブラジルとアルゼンチンは理事会指定理事国と総会選出理事国を交互に務めることで、常に議席を維持)。また、「総会選出理事国」22カ国の枠は、8地域グループ(極東、北米、西欧、東欧、東南アジア・大洋州、中東・南アジア、アフリカ、ラテン・アメリカ)に一定数が割り振られている(内2枠は一部地域グループ間のローテーション)。
 このユニークな理事国選出の方式は、IAEA憲章策定時の経緯に由来する。1953年のアイゼンハワー大統領の「平和のための原子力(Atoms for Peace)」演説後に始まったIAEA憲章策定作業は、当初、西側原子力先進国とウラン産出国8カ国(米、英、仏、加、豪、南アフリカ、ベルギー、ポルトガル)により始められ、後に東側と第3世界の4カ国(ソ連、チェコスロバキア、ブラジル、インド)が加わって進められた。理事国選出方式として、世界を8地域グループに分け、原子力最先進国、地域先進国(最先進国のいない地域グループから選出)を理事会が指定するアイデアはインドが提案したとされる。
 IAEA発足時点では、原子力最先進国5カ国(米、英、仏、加、ソ連)、地域先進国5カ国(ブラジル、インド、南アフリカ、豪、日本)の計10カ国が事実上の常任理事国として、加えて3グループ(西欧(ベルギー、ポルトガル)、東欧(チェコスロバキア、ポーランド)、北欧4カ国)から各1カ国の計13カ国が理事会で指定されることとなった。更に8地域グループから10カ国が総会で選出され、合計23カ国で理事会が発足した。憲章策定に関与していなかった国で当初から事実上の常任理事国になったのは日本のみである。理事国数はその後、1973年に34カ国(理事会指定理事国12カ国、総会選出理事国22カ国)に拡大され、1984年の中国のIAEA加盟の際に理事会指定理事国を1枠増やして35カ国となり、現在に至っている。
 理事会がIAEA事務局長の任命を決定するにあたっては、予算など他の重要事項と同様、35理事国の3の2多数決によるとされている(理事会暫定規則36条(b))。すなわち、IAEA事務局長のポストを獲得するには、35カ国の3の2当たる24カ国以上の支持が必要になるのである。

(「武器なき継承戦争」:IAEA事務局長選挙)
 ヨーロッパの外交史を紐解くと、「継承戦争」という言葉にしばしば出くわす。各国君主の地位の継承問題は、欧州各国の利害関係、パワーバランスに大きな影響を与え、時として大規模な紛争を引き起こしてきた。
 なかでもよく知られているのが、1740年に勃発した「オーストリア継承戦争(War of the Austrian Succession(英)/Österreichischer Erbfolgekrieg(独))」であろう。神聖ローマ皇帝(ハプスブルク当主)カール6世の死後、娘マリア・テレジアのハプスブルク家相続は諸外国の介入を招き、プロイセン王(選帝候)フリードリッヒ2世がシュレジエン地方に侵攻、また、神聖ローマ皇帝の地位を長年独占してきたハプスブルク家に替わり、一時バイエルン王(選帝候)が帝位に就く事態となった。数年に及ぶ戦争を経て、プロイセンへのシュレジエン割譲と引き換えにハプスブルク家が帝位を回復し、マリア・テレジアの夫君が神聖ローマ皇帝に就いたのは、5年後の1745年のことである。
 現代の国際機関のトップを巡る選挙は、候補者の擁立から始まり、支持獲得を巡って各国の間で様々な外交的な駆け引きが展開される。とりわけ、核・原子力の問題において強い影響力を持つIAEA事務局長ポストを巡っては、新たな事務局長が選出されるたびごとに、その時々の国際情勢を反映して、「武器なき継承戦争」ともいうべき熾烈な外交が展開されてきた。

歴代の「皇帝」たち

 過去60年のIAEAの歴史において、事務局長は現職の天野事務局長を含めて5人しかいない。初代のコール事務局長を除けば、いずれも3期~5期の任期を務めている。核・原子力の問題を扱う国際機関としての特殊性故に、長期政権が好まれる一方で、現職の退任後、新事務局長が選出される際には、極めて激しい選挙戦が行われてきた。
 以下では、歴代IAEA事務局長とIAEAの主な歩みを紹介することとしたい。過去の事務局長選挙の経緯については、IAEA設立40周年を記念して出版された、“History of the International Atomic Energy Agency: the First Forty Years”(David Fischer)、及びIAEA総会議事録、プレス・リリース等の関連公開資料に拠っている。また、IAEAの歩みについては、これまでの本連載でも、第1話(IAEAの誕生)第2話(原子力の平和的利用)第3話(原子力安全)第4話(保障措置)第9話(IAEA福島報告書)第13話(核セキュリティ)で触れてきたところである。

(「草創期の議会人事務局長」:スターリング・コール(初代)1957-1961)

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写真出典:IAEA

 IAEA発足に際し、初代事務局長は中立国出身の科学者から選ばれるであろうというのが、事前の大方の予想であった。
 しかしながら、これを覆してIAEA発足直前に米国(アイゼンハワー政権)が推薦したのは、共和党、ニューヨーク州出身の米国下院議員、スターリング・コール(Sterling Cole)であった。米議会で原子力合同委員会委員長を務めたコールはIAEA憲章策定過程に通じており、背景には、米国のIAEA加盟を円滑にするための米議会対策の考慮があったとされる。反発が予想されたソ連の反応は意外にも穏当で、バランスをとって初代理事会議長を東側からのチェコスロバキア代表が務めることで決着がついた。

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ウィーンのコンツェルトハウスで開催された第1回IAEA総会(出典:IAEA)

 しかしながら、コール事務局長のIAEA運営は平坦ではなかった。生粋の米議会人であるコール事務局長と、各国外交団との折り合いは決して円滑なものではなかったとされる。また、米政府との関係も微妙であった。各国原子力施設への保障措置(査察)に関する米国の立場が、二国間協定やユーラトムを通じた方式に重点を置いてIAEAの役割を縮小する方向に傾いたため、コール事務局長はハシゴを外される形となったためである。
 コール事務局長にとって不運だったのは、冷戦のまっただ中という、時代背景も挙げられる。1953年の朝鮮戦争休戦、スターリン死去後の数年間、IAEA憲章策定が進んでいた頃は比較的静かな時期であったが、IAEA憲章が採択された1956年秋の直後にスエズ危機、ハンガリー動乱が勃発し、緊張が再び高まる状況となった。1957年の第1回IAEA総会の期間中にはいわゆるスプートニク・ショックがあり、その後もベルリンの壁構築(1961年)に代表される冷戦状況は、IAEAの運営にも影響を与えないわけにはいかなかった。1960年に共和党アイゼンハワー政権から民主党ケネディ政権に交代し、米本国政府の再任支持も見込まれない中で、コール事務局長は1期で退任することとなった。
 多難な草創期のIAEA事務局を率いたコール事務局長だが、ウィーン郊外のサイバースドルフにおけるIAEAの研究所設立に尽力するなど、残した足跡も大きい。

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写真左:ウィーンにIAEA本部を設置するためのIAEAとオーストリア政府の協定に署名するコール事務局長(左)。
右はオーストリア外相。(出典:IAEA)
写真右:サイバースドルフ研究所の建設にあたり、最初のコンクリートを流し込むコール事務局長。(出典:IAEA)