地球温暖化の科学をめぐって(4)
有馬 純
国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授
ところが、トール教授の担当するIPCC第5次評価報告書WGIIの経済影響の章の中には「これから2度の温度が上昇した場合の厚生ロスはGDPの0.2%から2.0%の間」との分析(Field and Canziani 2014)が、緩和を扱うWGIIIには「2050年までに500ppmの温室効果ガス濃度を目指した場合のコストはGDPの2.7%、550ppmを目指した場合のコストは1.7%」との分析(Edenhofer et al 2014)が紹介されている。これらを併せ考えると、500ppm安定化の場合の対策コストは温暖化のコストを上回ることになり、スターン・レビューで提示された上記の命題と齟齬をきたすことになる。しかも実際の温暖化交渉では500ppmどころか、450ppm安定化が必要との主張が主流になり、更には島嶼国を中心に350ppm安定化を目指すべきとの議論も生じている。この場合、温暖化対策のコストが温暖化のコストを上回る度合いが更に拡大する。
これは野心的な温暖化対策を主張する政治的立場から見れば、不都合でもある。デイリーメイル紙によれば、英国政府は最終ドラフトの議論に先立ち、「0.2-2.0%という数字は、良くて過小評価、悪くて無意味(at best an underestimate, and at worst completely meaningless)」というコメントを出し、この数字の位置づけをダウングレードしようとしたという。保守党右派のピーター・ボーン議員は「気候変動についてはいつもこれだ。(気候変動信奉派は)事実が自分たちに不都合であれば、事実を変えてしまう。独立した科学報告に対する政府の介入は馬鹿げている。我々が欲しているのは、『独立した科学コミュニティがどう考えているか』であて、『人々が自分の政治目的のために科学コミュニティに何を言ってもらいたいと思っているか』ではない」と批判している。
これに対し、英国エネルギー気候変動省は、同省ホームページにおいてエド・デイビー大臣名の記事を出し、「英国がIPCCの報告書に政治的介入した事実はなく、IPCCの求めに応じてコメントしたものである。ドイツ、日本、米国、フィンランドもコストの範囲やデータについて疑問を呈している。この結果、グローバルな経済影響の試算は困難であり、モデルの制約もあるとの点がハイライトされることとなった」と反論している。
ローソン-ホスキンス論争と同様、私には第5次評価報告書に盛り込まれた分析がどの程度、正しいのか否かを判断することはできない。ただデイビー大臣が指摘するように「グローバルな経済影響の試算は困難であり、モデルの制約もある」というならば、「温暖化のコストは温暖化対策のコストをはるかに下回る」というスターン・レビューについても同じことが言えるのではないか。英国を含め、EUはスターン・レビューのモデル分析を根拠に野心的な温暖化対策を主張していたが・・・・。
英国政府は温暖化コストの過小評価を問題視しているが、温暖化対策のコストについても過小評価の問題がある。トール教授はIPCC報告書に出てくる費用対効果分析の問題点として、温暖化目標を最小コストで達成するとの前提条件を挙げる。世界全体で温暖化対策のコストを最小化するためには、全ての国、全てのセクターで単一の炭素価格が設定し、それを徐々に引き上げていくことが必要になるが、現実はそれとは程遠い。国際的に単一の炭素価格などは存在せず、各国の温暖化対策は、種々の規制や再生可能エネルギー等への補助金が重畳して存在する。即ち、現実の温暖化対策のコストはIPCCで示される理論値よりもはるかに高いということだ。