地球温暖化の科学をめぐって(4)


国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授

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 IPCCプロセスに対する政治介入に対する批判は、同じくIPCCのCLAであるハーバード大のロバート・スタヴァンス教授からも提起されている。

http://www.robertstavinsblog.org/2014/04/25/is-the-ipcc-government-approval-process-broken-2/

 スタヴァンス教授は、2014年4月のベルリンでのSPM承認プロセスについて「195カ国にのぼる各国政府代表が、SPMを1行1行(line-by-line)議論し、書き直した。各国の利害やマルチ交渉のポジションと整合しない記述は受け入れられない。SPMの議論に参加した政府代表の多くはUNFCCCの交渉官であり、彼らに、彼ら自身が利害関係者となっている論文を要約した文書の承認を求めることは利益相反になる。このような状況で文書を承認してもらうためには、たとえ1ヶ国でも反対があれば、当該記述をドラフトから削除するしかない。この結果、多くの具体的な事例や文章がわずか1-2ヶ国の反対で削除され、当初ドラフトの75%が削除された」と記している。そして彼は、「SPMは政策決定者のための要約ではなく、政策決定者による要約である(the resulting document should probably called the Summary by Policymakers, rather than the Summary for Policymakers)」と皮肉っている。これは「SPMをドラフトしたのは科学者だが、各国政府によって書き直された」というトール教授の批判とも合致する。

ロバート・スタヴァンス・ハーバード大教授

ロバート・スタヴァンス・ハーバード大教授

 スタヴァンス教授は、更に「IPCCが今後も評価報告書を作成するのであれば、各国政府にレビューや全会一致での承認を求めるべきではない。また研究者が多大な労力を費やしたても、その成果がSPMプロセスで政府から拒絶されるならば、そんな作業を研究者に依頼すべきではない。IPCC報告は政府のコメントを受け付けることはあっても、承認を求めるべきではない。IPCC報告で公共財として有益なのはテクニカルサマリーと各章のサマリーであって、SPMではない」と述べている。

 全体で数千ページにのぼるIPCC報告書を通読することは通常人には不可能だ。だからこそ、サマリーが必要なのだが、SPMの作成プロセスがトール教授やスタヴァンス教授の指摘するような問題を抱えているならば、SPMだけを読んで判ったつもりになってはいけないのだろう。

 トール教授との対話でもう一つ興味深かったのは、温暖化のコストと温暖化対策のコストの相互関係である。

 2006年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのスターン卿が英国政府の求めにより取りまとめた「スターン・レビュー」は温暖化関係者の間で聖典扱いされている。スターン・レビューでは「気候変動を緩和しない場合のコストはGDPの5-20%、525ppmで濃度安定化させた場合の2050年時点でのコストはGDPの1%」とされ、「温暖化対策のコストは温暖化の進行によるコストをはるかに下回る」との理由で、500ppmでの濃度安定化が推奨されてきた。

 ところが、トール教授の担当するIPCC第5次評価報告書WGIIの経済影響の章の中には「これから2度の温度が上昇した場合の厚生ロスはGDPの0.2%から2.0%の間」との分析(Field and Canziani 2014)が、緩和を扱うWGIIIには「2050年までに500ppmの温室効果ガス濃度を目指した場合のコストはGDPの2.7%、550ppmを目指した場合のコストは1.7%」との分析(Edenhofer et al 2014)が紹介されている。これらを併せ考えると、500ppm安定化の場合の対策コストは温暖化のコストを上回ることになり、スターン・レビューで提示された上記の命題と齟齬をきたすことになる。しかも実際の温暖化交渉では500ppmどころか、450ppm安定化が必要との主張が主流になり、更には島嶼国を中心に350ppm安定化を目指すべきとの議論も生じている。この場合、温暖化対策のコストが温暖化のコストを上回る度合いが更に拡大する。

 これは野心的な温暖化対策を主張する政治的立場から見れば、不都合でもある。デイリーメイル紙によれば、英国政府は最終ドラフトの議論に先立ち、「0.2-2.0%という数字は、良くて過小評価、悪くて無意味(at best an underestimate, and at worst completely meaningless)」というコメントを出し、この数字の位置づけをダウングレードしようとしたという。保守党右派のピーター・ボーン議員は「気候変動についてはいつもこれだ。(気候変動信奉派は)事実が自分たちに不都合であれば、事実を変えてしまう。独立した科学報告に対する政府の介入は馬鹿げている。我々が欲しているのは、『独立した科学コミュニティがどう考えているか』であて、『人々が自分の政治目的のために科学コミュニティに何を言ってもらいたいと思っているか』ではない」と批判している。

http://www.dailymail.co.uk/news/article-2592992/Britains-secret-bid-fix-UN-climate-report-Impact-economy-ramped-up.html

 これに対し、英国エネルギー気候変動省は、同省ホームページにおいてエド・デイビー大臣名の記事を出し、「英国がIPCCの報告書に政治的介入した事実はなく、IPCCの求めに応じてコメントしたものである。ドイツ、日本、米国、フィンランドもコストの範囲やデータについて疑問を呈している。この結果、グローバルな経済影響の試算は困難であり、モデルの制約もあるとの点がハイライトされることとなった」と反論している。

http://blog.decc.gov.uk/2014/03/31/response-to-the-daily-mail-britains-secret-bid-to-fix-un-climate-report/

 ローソン-ホスキンス論争と同様、私には第5次評価報告書に盛り込まれた分析がどの程度、正しいのか否かを判断することはできない。ただデイビー大臣が指摘するように「グローバルな経済影響の試算は困難であり、モデルの制約もある」というならば、「温暖化のコストは温暖化対策のコストをはるかに下回る」というスターン・レビューについても同じことが言えるのではないか。英国を含め、EUはスターン・レビューのモデル分析を根拠に野心的な温暖化対策を主張していたが・・・・。

 英国政府は温暖化コストの過小評価を問題視しているが、温暖化対策のコストについても過小評価の問題がある。トール教授はIPCC報告書に出てくる費用対効果分析の問題点として、温暖化目標を最小コストで達成するとの前提条件を挙げる。世界全体で温暖化対策のコストを最小化するためには、全ての国、全てのセクターで単一の炭素価格が設定し、それを徐々に引き上げていくことが必要になるが、現実はそれとは程遠い。国際的に単一の炭素価格などは存在せず、各国の温暖化対策は、種々の規制や再生可能エネルギー等への補助金が重畳して存在する。即ち、現実の温暖化対策のコストはIPCCで示される理論値よりもはるかに高いということだ。

 結局のところ、将来の温暖化のコストと、温暖化対策のコストを比較して皆が合意できるバランス解を出すことはミッション・インポッシブルなのかもしれない。エネルギー気候変動の世界で著名な学者であるマイケル・グラブ・ケンブリッジ大教授が近著「Planetary Economics」の中で「地球温暖化問題には多層的な不確実性があり、炭素の社会的コストについての客観的な見通しや、国際的なコンセンサスを不可能にしている」と述べている。

 「地球温暖化の科学」といっても、温暖化のメカニズムについては自然科学の範疇だろうが、温暖化や温暖化対策のコスト評価は社会科学の要素が大きく、その分、研究者の価値観に左右されるところも大きい。例えば将来のコストを現在価値化する際の割引率をどう設定するかで、費用対効果分析の結果も大きく違ってくる。だからこそ温暖化交渉で繁用(乱用)される「科学が求める数字」というレトリックをそのまま受け入れることはできない。

 ローソン議員、トール教授の事例を通じて、痛感するのは、「異なる考え方に対する寛容さの重要性」である。米国の気候学者、ジュディス・カリーは自身のブログの中で以下のように述べているが、私も全く同感だ。

Can climate scientists please stop the intimidation, bullying, shunning and character assassination of other scientists who they find “not helpful” to their causes? Can we please return to logical refutation of arguments that you disagree with, spiced with a healthy acknowledgement of uncertainties and what we simply don’t know and can’t predict?  

 「気候変動は人類に突きつけられた大きなリスクであり、これは人類起源のCO2によってもたらされている。温室効果ガス削減の野心的な目標を掲げ、早期に行動すべきである。気候変動の対策コストは気候変動がもたらすコストに比べればはるかに小さいものである」という気候変動コミュニティの「教義」から見れば、ローソン議員はもちろん、トール教授、ジュディス・カリーも、更にこんな記事を書いている私自身も「温暖化懐疑派」とのレッテルを貼られるだろう。しかし、巷間、「温暖化懐疑派」と言われる考え方の中には「温暖化は生じていない(むしろこれから寒冷化が生ずる)」、「温暖化は生じているがCO2が原因ではない(原因かどうかわからない)」、「温暖化の将来見通しとそのコストには不確実性がある」、「温暖化は生じており、CO2が原因である可能性が高いが、対策コストが過大にならないようにすべきだ」等々、実に様々なものが含まれる。

 異なる考え方を「レッテル貼り」によって排除することは、思考停止に等しい。私自身が温暖化交渉を通じて何度も化石賞を受賞した経験に照らして言えば、上記の気候変動コミュニティの定説に楯突くと、「温暖化懐疑派」もしくは「化石」との「レッテル貼り」をされる傾向が強いように思える(ちなみに福島事故以降、我が国で猛威を振るった「原子力ムラ」という用語にも同じ傾向を感ずる)。しかし「レッテル貼り」は自らにも跳ね返る。クライメート・ゲート事件が生じた際、IPCCプロセス全体を「まやかし」と揶揄する言説が横行したが、これはトール教授の言うところの「温暖化を熱烈に信奉する人々による異端派の火あぶり」に対する悪しき反作用であろう。どちらも温暖化問題への健全な対応にとって有害でしかない。

 何事にも疑いをもつことは科学的思考の出発点である。地球温暖化の科学もその例外であってはならない。

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