ドイツの電力事情⑫ ”脱原発”の経緯とコスト(前編)
竹内 純子
国際環境経済研究所理事・主席研究員
東日本大震災をきっかけとした東京電力福島第一原子力発電所事故(以下、福島原子力発電所事故)は、海を超え欧州・ドイツのエネルギー政策に大きな影響を与えた。事故発生直後の2011年3月15日、ドイツのメルケル首相は、ドイツ国内にある、1980年以前に稼働を開始した7基と火災事故により2007年から停止していた1基の計8基の原子力発電所を3ヶ月間一時停止させることを発表したのである。
その後、同年8月には原子力法を改正し、一時停止措置を受けていた8基の原子力発電所の再稼働禁止、残り9基の原子力発電所についてそれぞれ、最長でも2022年とする停止年限を決定した。この素早い動きを高く評価する報道は日本でも多く見られる。しかし、度重なる政府の方針変更に対して電力事業者からの複数の訴訟が提起されている。
前編ではドイツにおける原子力政策の変遷をたどり、後編で現在提起されている訴訟の内容について整理する。
ドイツの原子力政策の歴史
メルケル首相の判断は突然のものではなく、長く繰り返されてきた脱原子力に向けた議論がその背景に存在する。ドイツ人の間には、もともと原子力発電に対して慎重な意見が多く、1970年代から原子力に対する反対運動が活発に行われてきた。
ドイツ人のリスク感覚は独特であると言われる。筆者は昨年、原子力事故が発生した場合の事業者の損害賠償責任について研究したが、新技術の導入に際して、なんらかその技術の利用に関連して被害が生じた場合に、民法の基本原則たる「過失責任」を越え、無過失であっても事業者に責任を負わせるいわゆる「無過失責任」(「危険責任」とも言う)という概念がドイツに発していることを知った。この経緯については一般社団法人21世紀政策研究所の「新たな原子力損害賠償制度の構築に向けて」の第3部第3章、早稲田大学浦川道太郎教授執筆の「原賠法の無過失損害賠償制度と原発被害者救済の在り方」に詳しいが、ここに要約すれば、1838年、ドイツ(当時はプロイセン)は鉄道建設が政治問題になっていたという。「鉄道」という新技術に対して強いリスクを感じた市民の反発により鉄道建設が進まず、当時の司法大臣が「従来の不法行為責任の原則である過失責任から逸脱して、被害者保護のために、過失のない事故損害に対しても損害惹起者である鉄道会社に全責任を負わせる提案」をし、それが「世界最初の無過失責任立法であるプロイセン鉄道法25条として結実」したという。事程左様に、ドイツ国民のリスク意識は高いということを示す事例であろう。
1970 年代半ば以降、原子力関係施設の計画地域において反対運動が頻発し、それがネットワーク化。70年代後半には環境保護や原子力反対を掲げる「緑の党」が結成され、1980年には連邦大の政党として活動を開始する。1983年には連邦選挙で5%の得票を獲得するなど急成長したという。
もともとあった原子力発電に対する抵抗感に加えて、ドイツ人の「脱原発」を決定づけたのは、1986年の旧ソビエト連邦(現ウクライナ)で発生したチェルノブイリ原子力発電所事故である。約1600kmも離れているにもかかわらず、南部を中心に多くの農地やドイツ人の愛する森林が汚染され、牛乳等食品から放射性物質が検出されたことで、消費者がパニックに陥ったのだ。旧ソビエト連邦政府からはもちろんドイツ政府の情報発信も不十分だったために、国民に強い不信感を根付かせてしまったのである。その後1987~88年に、放射性廃棄物輸送を巡る原子力業界の一不正が明らかになったことも世論に影響を与え、シュレーダー政権時代の2002年、原子力法が改正された。その内容は、
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- 原子力発電所の新設禁止
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- 原子炉1基あたりの総運転期間は32年間を基本とし、既設の原子炉1基ごとの残存発電量を設定。残存発電量がなくなった原子炉は廃止することを決定(2022年頃までに順次廃止)
この改正には先に述べた「緑の党」の存在が大きく影響したと言われている。