本当に人々は「ゼロリスク」を求めていたのか
堀越 秀彦
国際環境経済研究所主席研究員
ちなみに、この設問を原子力利用の賛否の別にクロス集計した結果も示されている。原子力利用に反対という意見を持つ方には「100%の安全が確保できないならば使うべきではない」と考える人が多かった。当局に直接声を届けるような方々にはゼロリスクを求める人が多いと感じられたということだろうか。
このデータを踏まえて、改めて前委員長の弁をみると、まず「人々がゼロリスクを求めている」という言説が検証されなかったことが気にかかる。「リスクがあることを知らせることを避ける」ための口実として利用されていたのか、どこかの誰かが「一般の人々がゼロリスクを求めている」と言ったことが検証されずに浸透し続けたか、当局に対して直接的に声を届ける方々の中にはゼロリスクを求める意見が多かったからなのか、このような言説が浸透していた理由は知る由もないが、専門家集団としての気質について不安が残る。また、仮に「ゼロリスクを求める人は、専門家集団よりも一般の人の集団で多くみられる」とか「当局に直接声を届けるような方々には、ゼロリスクを求める人が多い」としても、それは必ずしも「一般の人にはゼロリスクを求める人が多い」ことを意味しないことを念のため付言しておきたい。直接届く声だけに反応して大局を見誤ってはいけない。
そもそも、人々の意識がどうあろうとリスクの存在は大前提である。とりわけ原子力安全委員会といった規制機関はリスクがあるからこそ存在する。仮に、人々が本当にゼロリスクを求めていると認識していたならば、むしろリスクが存在することを伝える必要性が高いと判断されるべきだろう。しかし、彼らはあえてリスクを知らせることを避けてきた。この自主規制(事なかれ主義、悪く言えば「隠蔽体質」とも)によって、安全確保の議論が制約を受けていたとすればたいへん残念なことであるし、議論の制約がアクシデントマネジメントの質を下げていたならば、残念では済まされない。
リスクが顕在化したことは大きな不幸である。しかしリスクがゼロでないことが誰しも認めることとなった状況は、リスクの存在を前提とした議論を深め、人々に知らせるよい機会でもある。新たな規制機関など原子力の安全確保に携わる方には、リスクに対峙する自らの仕事を、臆せずに社会に伝えて欲しいと思う。
また、「人々がゼロリスクを求めている」から「リスクがあることを知らせることを避ける」という考え方の背後には、人々はリスクを理解できないだろうという傲りと、人々への不信感の存在が感じられる。今回の事故の前にも不祥事やトラブルが続き、信頼回復は我が国の原子力のひとつの大きな課題とされてきた。しかし、人々を信頼せず、リスクを知らせず、それで信頼を回復したいというのは、いささか虫のよい話だったということだろう。
まずは人々を信じることから始めて欲しい。