第1話「気候変動交渉20年:コペンハーゲンへの道」


在ウィーン国際機関日本政府代表部 公使

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 1990年は「気候変動交渉元年」ともいうべき年である。前年にベルリンの壁が崩壊し、米ソ首脳による東西冷戦の終結が宣言されたこの時期、世界の関心は地球環境問題という新たな課題に向けられ始めていたが、その筆頭が気候変動問題であった。この年の国連総会では、2年後の92年国連環境開発会議(リオ地球サミット)に向けて、気候変動問題に対処するための新たな国連条約づくりのプロセス開始が決議された。そして92年に国連気候変動枠組条約、更に97年には京都議定書が成立し、現在の「リオ・京都体制」ともいうべき国際枠組みが完成する。その構造はしかし、現在に至るまで、冷戦終了直後の国際社会の形を引きずったままとなっている。
 この20年間で国際社会は大きな変貌を遂げた。グローバリゼーションの進展、日米欧3極の地位の相対的低下と中国、インドなど新興国の台頭、NGOや民間セクターなど多様なプレーヤーの役割の増大等々である。「リオ・京都体制」を国際社会の構造変化を反映したものに変革する努力は2000年代半ばから本格化した。それは07年のバリCOP13を経て、09年のコペンハーゲンCOP15で一つの帰結を迎える。しかしながら、この約200人もの各国首脳が集結した前代未聞の国際会議は、大きな挫折感を多くの国々に与える結果に終わった。筆者個人にとっては、このCOP15は気候変動交渉との初めての遭遇の場でもあった。
 もっとも、このコペンハーゲンの顛末を失敗の一言で片付けるのは公平でも、正しくもない。コペンハーゲン合意なくして、その後のカンクン合意、ダーバン合意はなかったと言ってよい。各国首脳が夜を徹して直接交渉にあたったのは、第一次世界大戦後のヴェルサイユ講和会議以来とのことだが、その結果出来た合意は、その後の環境外交を方向付ける上で画期的なものであった。この点については、本連載でも今後紹介していきたい。
 気候変動交渉は「武器無き戦争」とも言われる。各国とも、資金力、技術力、外交力など、軍事力以外の手段を駆使しながら、交渉を自らの国益に有利な方向に引き寄せようと熾烈な駆け引きを繰り広げる。そこには、巷間言われるような「先進国vs途上国」といった単純な二項対立の図式では描ききれない、複雑な現在の国際政治の縮図がある。「21世紀型の総力戦」といっても良いかも知れない。コペンハーゲンでもオバマ米大統領や温家宝中国首相、シン印首相、メルケル独首相、ブラウン英首相、アフリカ及び小島嶼国の首脳、そして鳩山総理など、多様な利害を抱える各国首脳が一堂に会して、延べ十数時間にわたる丁々発止のやりとりを行った。一時は乱戦模様になった場面もあり、オバマ米大統領と新興4カ国(中、インド、ブラジル、南アフリカ)の首脳が対峙する光景をとらえた写真をご記憶の方もあろう。これはほんの一例に過ぎない。気候変動交渉は、21世紀のグローバルガバナンスの有り様を映し出す鑑でもある。筆者自身、その現場に立ち会う羽目になったことは、得難い経験が出来たという意味で幸運だったのかも知れない(あくまで後から振り返ってみれば、の話であるが)。
 第1話では、コペンハーゲンCOP15に至る気候変動交渉20年の歴史を振り返りつつ、現在の国際社会の縮図としての気候変動交渉の意味を論じる。
 まずは、時計の針を2009年冬に戻すことから始めたい。

別添:第1話「気候変動交渉20年:コペンハーゲンへの道」本文
*本文中意見にかかる部分は執筆者の個人的見解である。