WTOは環境も救うか?


国際環境経済研究所主席研究員

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デジタルIT製品の貿易自由化の動き

 久しぶりに思えるジュネーブ発での貿易関連報道があった。5月16日付け日経新聞(夕刊一面トップ)によれば「日米欧、中韓など74カ国・地域は15日、関税を撤廃するデジタル製品を大幅に増やすため、世界貿易機関(WTO)の情報技術協定(Information Technology Agreement:以下、ITA)の改定交渉を開始することで合意した」とのことである(注1)。WTOの公式ホームページでもその内容を”Informal talks set to begin on expanding the Information Technology Agreement”と公表している。

 ITAは、1996年のWTOシンガポール閣僚会議で合意し、翌年発効したIT製品の関税撤廃等に関する国際取り決めである。最近コロンビアが加盟し、昨年末にロシアのWTO加盟を決定したが近々ロシアもITAに加盟することになっており、現在では74カ国・地域で構成し、対象IT製品の世界貿易97%をカバーする内容となっている。

 しかしながら、発効から15年を経過しているにもかかわらず、ITAでカバーされている製品が当初の半導体、携帯電話、プリンター、ファックス、静止画用デジタルカメラといった従来のIT製品のまま見直されておらず(注2)、この15年間の技術革新が反映されていないとして、5月14,15日にジュネーブで開催されたITA15周年記念シンポジウム(以下、シンポジウム)では対象物品を拡大すべきであると世界中の産業界から大きな声が上がった。(注3)

※WTO15周年記念シンポジウムの報告書カバー

(注1)
本稿を提出するまさにその日にその後の動向が報道されていた。6月2日付日本経済新聞電子版によれば「関税撤廃の追加品目を協議へ、ITA主要加盟国・地域」との見出し。
(注2)
ITAの見直し交渉がこの間まったくトライされてこなかったわけではないが、2001年に立ち上がったドーハラウンド交渉が妥結すればこの分野も当然に対象になり十分カバーされうると考えられてきたとの事情も考えられよう。
(注3)
日本からキーノートスピーカーとして、JEITA副会長・ソニー副会長の中鉢氏が招待された。他に、ラミーWTO事務局長やバシェフスキー元USTR代表などもスピーカーを務めた。

ITは効率化だけか?

 こうした関税撤廃対象製品の拡大は既に専門誌にも取り上げられているようにデジタル製品ユーザーにとって朗報であろう。しかし、ITデジタル製品という分野だけにその政策的意義を留めるべきなのだろうか。シンポジウムでキーノートスピーチを務めた中鉢氏のプレゼン資料によればIT製品が生み出す価値を人間の生活すべて(医療、環境、農業、防災等々)に影響を与えるものとして単なる経済的価値に留めるべきでないと訴えられたようだ。会場で聴いた人によれば、その点が、他の主要先進国の元交渉官の声高かつ強圧的?とも取れる拡大交渉開始の主張が途上国を中心に違和感のあった様子だった一方で、多くの途上国を含む会場全体の好評を得られたとのことである。

 COP交渉と同様、WTOもマルチ交渉であり、基本的にあらゆる途上国を含めてコンセンサスを得ることが前提である。このITA拡大交渉もその前提で進むことになろう。その際、この貿易自由化が途上国にどのような富をもたらすのか、経済的側面だけで説明していては賛同が得にくいであろう。実際にITA委員会公式会合の場では一部途上国からは完全な賛同を得られていないとの話もあるようだ。(注4)

 交渉という側面から経緯を追ってみると、昨年APEC首脳宣言でこのITA拡大交渉を進めるべきと決定されたことが契機となっている。実は、その首脳宣言には別パラグラフではあるが、”Promoting Green Growth”の意義の下、APEC域内で2015年末までに環境物品の関税を5%以下にすべく、その環境物品リストを作ろうと決められていた。しかし、その環境物品交渉に関しては目立った動きは見えないのが実情のようである。

 もしそうであれば、このITA拡大交渉の対象品目をITデジタル製品と狭く捉えて交渉するのではなく、この環境物品交渉も一部先取り出来るような内容を目指してはどうか。それは、中鉢氏が指摘していた人間生活にとっての意義にも繋がるのではないか。冒頭引用した報道によれば、交渉対象品目として取り上げられる可能性として、リチウムイオン電池もあるようである。これは新エネルギー導入を進めるのに欠かせない製品であろう。それ以外にも、IT製品そのものといってよい“ビルや家庭用のエネルギーマネジメントシステム”といった”スマート”に資するものもIT製品として拡大交渉の対象として進めてもよいのではないか。

 まだどういった製品群が拡大対象となりうるのか分からず、まさに交渉はこれからのようである。しかし、そうしたITに名を借りた環境製品も対象となって交渉が妥結すれば、冒頭引用報道にあった“国際競争力が比較的高いデジタル製品を生産する日本企業にとって追い風”という記述も“環境製品とデジタル製品に国際競争力を有する日本企業にとって追い風”という見出しに変わるはずであろうし、そうなることを期待したい。
(※本文中の記述は、筆者の個人的見解であり、筆者の属する組織を代表するものではない。)

(注4)
このITAには中国も参加しているが、中国がこの交渉に応じる姿勢になっている(冒頭引用報道参照)という点は、WTOでの交渉が米中対立を軸に膠着していると見受けられる事情にかんがみれば興味深く、マルチの交渉構造を考える上で大いに今後の参考となろう。この点はまたいずれ考察してみたい。

(参考)
1.WTOのITA委員会公式会合の結果
  http://www.wto.org/english/news_e/news12_e/ita_15may12_e.htm
2.WTOのITA15周年記念シンポジウム
  http://www.wto.org/english/tratop_e/inftec_e/symp_may12_e/symp_may12_e.htm
3.日経トレンディネット
  http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20120517/1041055/?rt=nocnt
4.WTOのITA15周年記念シンポジウムでの中鉢氏のプレゼン資料
  http://www.wto.org/english/tratop_e/inftec_e/symp_may12_e/speaker3chubachi.pdf
5.APEC首脳宣言(2011年ホノルル)
  http://www.mofa.go.jp/policy/economy/apec/2011/pdfs/aelm_declaration_1111.pdf

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