米国の集団不法行為訴訟の産業化
ラウンドアップ訴訟とタイレノール訴訟の分析
	唐木 英明
	東京大学名誉教授
集団不法行為訴訟の構造
米国の集団不法行為訴訟(マス・トート)とは、ある製品により多数の被害者が出たときに、その加害企業に対して提起される民事訴訟である。この訴訟は、もはや法的手続きではなく、高度に組織化された収益性の高い産業へと変貌を遂げている。その中心にあるのが、「第三者訴訟資金提供制度」だ。これは、ヘッジファンド、機関投資家などが、和解金や判決金を担保にして、訴訟資金を提供する制度で、法律事務所は平均数百万ドル、場合によっては2億5,000万ドル(375億円)を超える資金提供を受ける。
彼らのビジネスモデルは、原告側法律事務所に対し、原告の募集や専門家証人の費用といった先行投資を賄うための資金を提供することにある。この資金は、訴訟が成功した場合にのみ返済される仕組みであり、法律事務所は金銭的リスクを負わない。資金提供は、複数の訴訟をまとめた「ポートフォリオ」に対して行われることが多く、金融ポートフォリオと同様に、投資家のリスクを分散させる。この産業は急成長を遂げ、2023年だけで170億ドル(2兆5500億円)の資金提供が行われた。これは日本のビール市場の約2倍という巨大産業である。
法律事務所は、リスクを負わない莫大な資金が利用できることで、従来であれば財政的に実行不可能だった、投機的で大規模な不法行為訴訟の遂行が可能になる。そこで、ハイリスク・ハイリターンの集団不法行為訴訟を実施し、資金提供者はそのような巨額の和解金が見込める訴訟を支援する。提供された資金は、多数の原告を募集すること、原告に有利な証言を行う優秀な専門家の協力を得ること、膨大な証拠書類の収集と分析などに使われる。こうして、司法制度が、紛争解決のメカニズムから投資機会へと変容してしまった。
和解金の額は原告の数に比例するため、法律事務所は、できるだけ多くの原告を集める。業者やマーケティング代理店を雇い、テレビ、ラジオ、印刷物、インターネットなどを駆使して、依頼者を募集するのだ。その費用は高額であり、例えば、2015年以降、ラウンドアップ訴訟の広告に、1億3,100万ドルが費やされた。
広告の内容は、例えばラウンドアップやタイレノールを使用した個人をターゲットとし、それをがん、自閉症などの特定の疾病と結びつけるイメージを持たせるものだ。これは、被害者を見つけ出すことだけが目的ではない。その製品を使用し、その病気を患っている視聴者の心に、疑念と因果関係の種を植え付けることで、人々の意識の中に「大規模な被害の物語」を構築することが、真の目的である。広告によって生み出された恐怖が、原告の殺到につながり、それが訴訟自体の信憑性を高めるというサイクルを生み出すのである。さらに、「あなたは多額の賠償金を受け取る権利があるかもしれません」という広告は、それまで存在しなかった可能性を認識させるのだ。
ラウンドアップ訴訟のテレビ広告は62万5,000件も放映されたのだが、この圧倒的な量は、メディアのエコーチェンバーを生み出し、一般市民やメディアの認識に影響を与え、ラウンドアップとがんの間に、科学的に関連性が確立されているかのように見せかけることができる。このようにして作り出された仮想のリスク認識が原告募集を促進し、その結果として得られる多数の原告が、賠償金額を大きくする。マーケティング活動が訴訟の価値を生み出すのである。
訴訟においては、専門家の科学的証言は決定的な役割を果たす。双方の当事者がそれぞれの主張に合う専門家を雇い、「専門家の戦い」が行われる。裁判官が、科学の質を評価するために設計されたのが「ドーバート基準」である。この基準に基づいて、専門家が述べる理論が科学的に妥当か、査読を経ているか、誤謬率はどの程度かなどを評価し、その証言を法廷で証拠として採用するのかを検討し、信頼できないと判断された証言は排除され、陪審員がそれを聞くことはない。このように、裁判官は「ゲートキーパー」の役割を果たすのだが、科学の専門家ではない裁判官が正確な判断をすることは簡単ではない。
このような背景があるため、双方とも、まずは裁判官を説得できる優秀な専門家と高額で契約する。専門家は一方の当事者から報酬を得ているので、その当事者の立場を支持する研究結果を主張する。その結果、「信頼性を確保する」というドーバート基準の目標に反して、「ジャンクサイエンス」を法廷に持ち込む機会が生まれる。さらに、数十億ドル規模の訴訟の判決が、一人の裁判官の解釈に左右される事態も起こりうる。
集団不法行為訴訟の歴史を見ると、古くは1960年代に起こったアスベスト訴訟があるが、1980年代に始まったたばこ訴訟は、原告の数も賠償金の額も飛びぬけて多く、その後の訴訟のモデルになった。その後、ラウンドアップ訴訟、有機フッ素化合物PFAS訴訟、オピオイド危機訴訟、タイレノール訴訟などが起こったが、これらのうち、特徴的で対照的な例として、ラウンドアップ訴訟とタイレノール訴訟の経緯を示す。
ラウンドアップ訴訟の大きな勝利
集団不法行為訴訟の戦略を知るうえで最も参考になる例がラウンドアップ訴訟である(1)。訴訟の科学的根拠は、2015年3月に世界保健機関(WHO)の専門機関である国際がん研究機関(IARC)が、ラウンドアップの有効成分であるグリホサートを「おそらくヒトに対して発がん性があるグループ2A」とした「ハザード分類」に依拠している。ところが、米国の環境保護庁(EPA)、欧州食品安全機関(EFSA)、国連食糧農業機関/世界保健機関合同残留農薬専門家会議(JMPR)、そして日本の食品安全委員会などの世界の規制機関は、いずれもグリホサートがヒトに対して発がん性はないと「リスク評価」している。
ヴィンス・チャブリア連邦地裁判事は、ドーバート基準に基づく審問を行い、原告側専門家が根拠とするIARCの評価に「揺らぎがある」としつつも、全体としては「信頼できる」として証拠採用を認め、グリホサートが非ホジキンリンパ腫を引き起こしうるという科学的証拠を陪審員に提示する道が開かれた。陪審員は原告側と被告側の専門家双方の証言を聞き、ラウンドアップが原告のがんの「要因であった」と判断し、モンサント社(現バイエル社)に賠償金の支払いを命じる評決を下した。
原告側の法廷戦略は、「ハザード」と「リスク」の間の曖昧さを巧みに利用することだった。科学者ではない裁判官と陪審員にとって、「ハザード」(がんを引き起こし「うる」)と「リスク」(通常の使用状況下でがんを引き起こす「可能性が高い」)の区別は微妙であり、容易に混同されうる。原告側弁護士は、IARCのハザード評価を国際機関が示した「真実」と位置づけ、EPAのような規制機関のリスク評価を産業界の影響を受けたものとして描くことに成功した。世界の規制科学の圧倒的な重みが被告側にあるにもかかわらず、原告が訴訟に勝利することができたことは、法廷においては、科学的コンセンサスそのものよりも、科学的権威の「認識」の方が強力でありうることを示している。
裁判の途中で、IARCが裁定を「捏造」した疑惑が明らかにされた。IARCが当初は「グリホサートとがんとの関連性がない」としていたのだが、後にこれを「編集して削除」し、「発がん性がある」と改変したこと、そして評価グループの議長を務めたアーロン・ブレア博士が、グリホサートとがんとの間に関連性がないことを示す最新データを取り上げなかったことが判明したのだ。さらに、IARCに「招待専門家」として参加したクリストファー・ポルティエ博士が、モンサント社を訴えていた法律事務所と高額なコンサルタント契約を結んでいたことも暴露された。IARCを巡る論争は、「物語の戦い」を露呈した。原告側の物語は、「IARCはグリホサートに関する真実を発見し、モンサント社は不当にIARCを攻撃している」というものである。被告側の物語は、「IARCは、利益相反のある個人(ポルティエ博士)と欠陥のある偏ったプロセス(草案の編集とデータの隠蔽)によって結論を『捏造』し、これを訴訟の武器として利用した」というものである。相反する専門家の主張に直面した陪審員は、すでに評判を落としていたモンサント社より、国際機関であるIARCを信頼したのだ。
もう一つの疑惑が、イタリアのボローニャ近郊にある、環境派の活動家の集まりとして有名な、ラマッツィーニ研究所である。この研究所は、一生の間毎日食べ続けても害がない「一日摂取許容量(ADI)」に相当する低用量のグリホサートを投与すると、ラットにがんが発生したという、信じがたい論文を発表し、原告側にとって重要な援護射撃となった。種明かしをすると、この研究所が使用したラットは、がんの自然発生率が高い系統だったのだ。この論文の結論は、他の多くの研究機関が否定している。
しかしこれは、「発がん性がない」という科学界のコンセンサスに疑問を持たせるための作戦であった。IARCの評価が世界の規制機関から批判されている中で、IARCの結論が単独の異端な見解ではないという印象を与えたのだ。これにより、科学的論争が継続しているという物語が強化され、法廷で陪審員に提示する証拠の厚みが増したのだ。
2020年に、バイエル社は係争中だった約12万5000件の訴訟のうち、およそ10万件を解決するため、最大で110億ドル(1兆6500億円)を支払うことで和解に合意した。バイエル社は、発がん性を認めたのではなく、訴訟の長期化による莫大な費用を抑えるためと、企業の評判をこれ以上落とさないための決断だった。しかし、その後も訴訟が続いていることから、2025年には、新たに12億ユーロ(2000億円)を追加で計上した。また、和解に参加しなかった個別の裁判では、数十億ドル規模の賠償評決も出ている。訴訟はまだ続いており、2025年9月時点で約6万1000件の請求が未解決のままである。
他方、法律事務所側の費用も大きかった。法律事務所の報酬は通常、回収総額の33%から40%の範囲で設定されるが、これまでの和解金額から、法律事務所が負担した総経費は、保守的に見積もっても25億ドルから35億ドルの範囲にあると推定される。ということは、資金提供者は数十億ドル規模の先行投資により、110億ドルの収入を得たことになる。法律事務所とその資金提供者は、倫理に反すると非難されるような手法まで使って、投資の回収を達成したのだ。
ラウンドアップ訴訟で完成した大規模広告、入念に仕組まれた科学的データ、企業内部資料の入手、そして大規模な第三者資金調達の組み合わせというモデルは、次の大規模不法行為訴訟の設計図として機能した。
タイレノール訴訟の不確実な将来
2024年に始まったタイレノール訴訟での原告側の主張は、妊娠中のアセトアミノフェン(タイレノールの有効成分)の摂取が、子どもの自閉症スペクトラム障害(ASD)や注意欠陥・多動性障害(ADHD)を引き起こすというものである。しかし、医学界および科学界のコンセンサスは、因果関係はないというものである。米国産科婦人科学会を含む主要な医学団体は、アセトアミノフェンが妊婦にとって利用可能な数少ない安全かつ不可欠な鎮痛解熱剤の一つであると、繰り返し断言している。日本やヨーロッパの保健当局も、妊婦への第一選択薬として推奨している。
原告側の主張は、相関関係を示す少数の観察研究に依存しているが、交絡因子を制御するために兄弟姉妹を比較対象とした2024年の医学雑誌JAMAの研究など、大規模で質の高い研究では、妊娠中のアセトアミノフェン使用と神経発達障害との間に関連性は見出されていない。
ラウンドアップ訴訟では、原告はIARCによるハザード分類という強力な後押しを持っていた。一方、タイレノール訴訟では、医学界からの強い反対がある中で、原告側弁護士は訴訟の科学的基盤をゼロから構築する必要があった。そこで原告側は、ハーバード大学公衆衛生大学院長であるアンドレア・バッカレッリ博士を筆頭とする専門家証人チームを組織し、アセトアミノフェンが自閉症を引き起こしうると証言させた。裁判資料によると、バッカレッリ博士はこの活動に対して、時給700ドルで少なくとも15万ドル(2200万円)を受け取っていた。
2023年12月、デニス・コート連邦地方裁判所判事は被告側の申し立てを認め、原告側の一般因果関係に関する専門家証人全員の証言を排除した。コート判事は、彼らの「方法論」が信頼性に欠けると判断し、「結果ありきの分析」であり、自らの結論を支持する根拠薄弱な研究を「チェリー・ピッキング」し、支持しない重要な研究を軽視していると非難した。この判決で、訴訟を事実上終結した。
これは、訴訟のために作られた「ジャンクサイエンス」に対する強力なゲートキーパーとして、ドーバート基準が意図通りに機能した例である。「ハーバード大学公衆衛生大学院長」という権威ではなく、科学研究の方法論を重視したこの判断は、IARCという国際機関権威を重視した結果、科学を無視することになったラウンドアップ訴訟での判断とは対照的である。
このような壊滅的な敗北にもかかわらず、訴訟は終わらなかった。原告団は、コート判事がその役割を逸脱して、不適切にも科学的裁定者として行動したと主張して控訴した。控訴審はカリフォルニア州で開かれているのだが、そこでは、専門家証言の採用に関する法的基準が、ドーバート基準よりも古く、緩やかな「フライ基準」であり、コート判事によって排除されたものと同じ専門家証言が、フライ基準の下では採用される可能性があるのだ。訴訟資金提供者と法律事務所は、司法制度の弱点を探り、訴訟を継続させて、被告に複数の戦線で費用のかかる戦いを強いることで、財政的に消耗させて、和解に持ち込もうとしているのだ。
この訴訟は、米国政府による異例の政治的介入によって、新たに強力な後援を得た。2025年9月、トランプ大統領とケネディ厚生長官は、妊娠中のアセトアミノフェン使用と自閉症との関連性について警告する記者会見を開き、妊婦がアセトアミノフェンを摂取しないよう、警告通知を行うと発表した。この発表の根拠は、連邦裁判所が「信頼できない」として排除した専門家の研究である。大統領の宣言は訴訟の原告側にとって大きな後押しとなり、新たな訴訟の波を引き起こすと予想されている。このような、進行中の大規模訴訟の中心にある科学的論争に対する、政府最高レベルからの直接的かつ公的な政治的介入は、ラウンドアップ訴訟では見られなかった顕著な特徴であり、異常な事態と言える。
報道によれば、ケネディ長官が報酬を受け取っているウィズナー・バウム法律事務所は、妊娠中にタイレノールを服用した可能性のある原告を募集する広告を出し、この訴訟に関係している。ケネディ長官は、閣僚就任後は報酬を受け取っていないと主張しているが、彼の息子コナー氏がその地位を引き継ぎ、訴訟ビジネスにおける財政的な権益を引き継いでいる。
おわりに
ラウンドアップ訴訟とタイレノール訴訟の裏側には、資金提供、広告主導、特定の科学的主張の武器化といった共通の戦略的構造がある。ラウンドアップ訴訟の成功は、異端ではあるが、国際機関であるIARCの権威を巧みに利用したことに基づいていた。一方、タイレノール訴訟が連邦裁判所で失敗したことは、ドーバート基準の厳格な精査の下で、「ハーバード大学公衆衛生大学院長」という権威が有効に働かなかったことを示している。現在進行中の州裁判所への軸足の移動は、根拠薄弱な科学的主張が、法的弱点によって認められ、逆転勝訴ができるのかの試金石となる。この問いの答えが、米国の集団不法行為訴訟における科学の取り扱いの未来を定義することになるだろう。
最後に、日本の法制度には懲罰的賠償金がないので、米国のような訴訟産業が存在しないことに安堵する。

 
  










 
						 
						 
						 
						
 
		