気候のティッピングポイントなど存在しない(その2)
「ティッピングポイントもなく、分岐点もない」
シーバー・ワン
Co-Director of Climate and Energy at the Breakthrough Institute
気候科学における 「ティッピングポイント」という言葉は、多くの点で誤解されやすい。この用語の二つの要素(単語)が混乱を招いているのである。
第一に、「ティッピング(臨界)」という言葉は、アンバランスな荷車がひっくり返るような突然の変化を意味する。しかし実際には、多くの気候科学論文や報告書は、ティッピング・エレメントの急激な状態変化(例えば、わずか20年以内の系統的な変化)は、一般的ではなく例外的であることを指摘している。気候システムの構成要素は、人類の時間スケールでは動きが鈍く、そのため、地球システムの構成要素の多くは、数百年、数千年とまではいかなくても、少なくとも数十年という時間をかけて変化するからである。例えば、永久凍土の融解による将来の炭素放出や、グリーンランド氷床の消失による海面上昇は、数百年規模で起こる。
地質学的なタイムスケールで物事を考える習慣のある地球科学者にとっては、産業革命以前における地球システムの典型的な変化であった氷河期のサイクルのペースと比較すると、この変化は非常に急速なものに思える。しかし、素人にとっては、「急速」というのは積み上げられたブロックの山やピサの斜塔が倒れることを想像させるので、全くイメージが異なる。このような認識の違いは、気候のティッピング・エレメントがどのように起こり、その影響がどの程度のスピードで、あるいはどのくらいのゆっくりした速度で展開するのかといったことについて、異なる予想をもたらす。
第二に、「ポイント(point)」という言葉も混乱を招く。この言葉は、地球システムを構成する部品がばったり倒れるような、ただ一つの、正確で、既知の、危機的な閾値というニュアンスがある。
気候システムにおいては――どこまでをシステムとして定義するかにもよるが—―ある閾値を越えれば、そのシステムが非線形的な変動を起こす場合もある。これは、南極のスウェイツ氷河のような場合である。フロリダ州と同じ大きさの大きな氷床は、温暖化によって氷床が構造的にティッピングポイントを超えると、何世紀にもわたって不可逆的に質量が減少する危険性がある、と広く理解されている。
しかし、その臨界の閾値が正確に分かっていることは稀である。また、北極圏の永久凍土地形やアマゾンの熱帯雨林のような大陸スケールの大きなシステムは、単独の包括的な気候ティッピングポイントを持っているわけではなく、むしろ地域的・局所的規模において閾値を超えることにより、より小さなスケールで非線形的な状態変化を示す可能性がある。熱帯雨林は1エーカーごとといった規模で減少し、日当たりの良い南向きの丘陵地の永久凍土は急速に融解して炭素を放出するかもしれないのである。
しかし、このように「ティッピングポイント」が不完全な言葉であるにもかかわらず、なぜこの言葉がここまで広まったのだろうか?
多くの科学的概念がそうであるように、気候のティッピングポイントという用語は、理論としてまずは生まれたものである。その後、研究者たちは理論を発展させ、さらに深く研究してきた。英語の文章で「tipping point」という用語が初めて口語的に使われたのは19世紀ごろにさかのぼるが、社会科学者や政治学者は、第二次世界大戦の後の数十年間、政治的な動きや社会経済的な急激な変化を説明するために「tipping point」という枠組みを使い始めた。
2000年代初頭にジャーナリストのマルコム・グラッドウェルが著書『The Tipping Point(ティッピングポイント)』でこの用語を一般化したのに続き、地球科学はその後、臨界的な閾値を超えると高速または低速の状態変化を起こす可能性のある地球システムの構成要素についての考え方を明確にするために、この用語を取り入れ始めた。初期の科学的議論のなかには、地球規模での気候のティッピングポイントの可能性をめぐる議論もあれば、あいまいな表現で ただ「ティッピングポイント」と呼ぶ場合もあった。徐々に、ほとんどの科学者は「ティッピング・エレメンツ」という用語に落ち着き、最新のIPCC報告書にあるように、「それを超えると、しばしば急激に、かつ/または不可逆的にシステムが再編成される、臨界的な閾値」と定義されるようになったのである。
しかし現在でも、科学文献の中で「気候ティッピングポイント」という言葉が、速いプロセスを指すのか、遅いプロセスを指すのか、また一般的な概念的枠組みなのか、数学的・統計的に定義できるものなのか、その意味するところは千差万別である。
その上、地球システムのさまざまな構成要素に関する科学的理解が進むにつれて、ティッピング・エレメントとしてリストアップされるメンバーも変化してきた。たとえば、北極の夏の海氷が将来的に急激に減少する可能性を提唱した研究者もいたが、その後の研究によって、北極の夏の海氷は温室効果ガス排出量の増加に比例して徐々に減少するという結論が示されたため、この仮説は弱くなっている。同様に、モンスーン循環やエルニーニョサイクルの急激な変化を予測した説も、ほとんど過去のものとなった。10年前の論文では、大量のメタンが海洋から湧き出し、それにより世界滅亡的な結果がもたらされる可能性があると警鐘を鳴らしていた。しかし現在では、海底堆積物の奥深くに埋もれた凍結メタンは、温暖化に対してゆっくりと徐々にしか反応せず、何世紀もあるいは何千年もかけて大気温暖化作用のあるメタンを少しずつ放出することがわかっている。
この記事を書いている時点では、北極海の夏の海氷、地域性モンスーン、海底メタンハイドレート、エルニーニョはティッピング・エレメントのリストからはほぼ削除されている。そして、それに代わって新たなエレメントが提案されているケースもある。例えば、2022年秋に『Science』誌に掲載された論文では、「ラブラドル海の亜寒帯環流の崩壊」と「バレンツ海海氷の突発的消失」が新たな可能性としてティッピング・エレメントに加えられている。時が経てば、さらなる研究がこれらの新たな可能性を検証することになるが、リストから削除されることもあり得るだろう。
これらはすべて、気候のティッピングポイントに関する現在の理解がいかに未だ不確かなものであるかを示している。温暖化について懐疑的な者たちは、このような不確実性を利用して、気候変動そのものに疑問を呈するかもしれない。しかし間違えないでほしい。ティッピング・エレメントの不確実性は、今後未来にどの程度影響を及ぼすかという点に焦点を当てているのだ。気候変動がこれらのシステムに影響を及ぼしていることについては、なんら疑問の余地はない。しかし同時に、将来の気候に関する私たちの予測は、私たちが望むよりも明らかに不確かなものである。最善の科学的努力と最新の研究は、通常、潜在的な答えの範囲、つまり重要な閾値が存在する可能性のあるリスクの範囲を導き出すに過ぎないものだ。
このような極めて曖昧な状況下において、メディアの見出しはしばしば、最悪のケースで最も大きな影響をもたらす可能性のある事例ばかり取り上げている。例えば、永久凍土の専門家たちは、全体的な炭素の放出は緩やかであることを強調しながらも、科学の見出しでは、融解した北極圏の土壌から放出される温室効果ガスを「炭素爆弾」などと称している。作家や記者も同様に、海底から湧き出るメタンの脅威を「爆弾」あるいは「銃」といった言葉を使って表現し、海洋メタンの突然の危険な放出などという、根拠の乏しくなりつつある仮説を提唱する研究を選び取って使用しているのである。
このような状況は、根本的には誰のせいでもないかもしれない。人間は脳の10%しか使っていないという俗説が広まっていることからもわかるように、科学分野のコミュニケーションにはしばしば困難がつきまとう。最近の例では、COVID-19の大流行が、研究者や専門家からのメッセージに対する一般市民の理解や受容に限界があることを如実に示している。さらに、地球科学者、メディア、そして一般市民の間で長年続いている伝言ゲームが、科学的理解の変化とともにそこに重なれば、誤解が生じるのも無理はない。
※その3、に続く