ナベツネさんに教わった「情報」の扱い方-エネルギー報道に思うー
石井 孝明
経済記者/情報サイト「withENERGY」(ウィズエナジー)を運営
情報はバイアスや思い込みにゆがめられる。エネルギーをめぐる情報の流通では、近年では「原子力発電を減らす」、またここ数年は「気候変動対応」「再エネ振興」という思想に引っ張られたように思える。どの立場の人にも、バランスの取れた情報に接して適切に対応を考える環境が整えられなかった。ある有名人との私の会話の記憶を辿りながら、情報の扱い方の適切な姿を考えてみたい。
その有名人は読売新聞グループ本社の代表取締役主筆で、昨年12月に98歳で亡くなったナベツネこと渡邉恒雄氏だ。記者活動やメディア経営に加えて、政界やプロスポーツ界にも影響を与えた。
「メディアを信じてはいけませんよ」
25年ほど前にある政治家の勉強会と称する少人数の懇親会で、特別ゲストに呼ばれていた渡邉氏の話を聞いたことがある。当時はサッカーJリーグでの運営方針をめぐる争いや、野球の読売ジャイアンツの経営で、渡邉氏は頻繁にスポーツ紙に登場していた。そこでは「独裁者」「怖い人」という報道が行われ、そうしたイメージが作られていた。
ところが、その会合の渡邉氏は、上機嫌でいろんな政治の裏話をして参加者を楽しませる、話し上手の面白いおじいさんだった。会合は渡邉氏の気配りで和気藹々としたものとなった。「怖い人というイメージが変わりました」と参加者が言うと、彼は次のように答えた。
「私は記者です。だから記者に質問されると、その仕事のことを考えて、見出しになるような面白いことを話してしまう。私が言うのも変だけど、皆さん、メディアを信じちゃいけませんよ。ハハハ(笑)。私は野球もサッカーも愛して、発展してほしいと思って発言しているのに、その本心は伝わらない」。
当時30代で駆け出しの記者だった私は、自分の仕事で業績を上げたいという思いと、有名人に顔を売りたいという焦りがあった。コネを使って、その勉強会に参加していた。自己紹介して「どうしたらいい情報をとり、いい記事が書けるのでしょうか。読売新聞史上最も社長表彰を受けた記者と聞いています」と質問した。
渡邉氏は「頑張ってください」と言った後で、「ネタ元を大切にすることかなあ。そうだったから、親父さんの代から、〇〇さん(その政治家)は付き合ってくれてますよ。けど今のご時世だと、親しすぎると癒着と言われてしまうかも。難しいね」と返事をしてくれた。
部外者の私は、一度会っただけで彼の本当の姿はわからない。そして私は20年以上経過しても小物記者のままだ。しかしメディアの伝えるイメージと現実が違う場合があることを、渡邉氏の発言から、よく思い出す。
読売のエネルギー論説、原子力に冷たいのは渡邉氏の影響か?
読売新聞はエネルギー報道では、この10年続いた電力・エネルギーの制度改革については自由化、再エネ振興を支持し、政府の政策を追認した。そして原子力問題については活用を主張したが、積極的ではなかった。自由化への懐疑、そして原子力規制のおかしさを指摘し続ける産経新聞とは違った。
政治、哲学が好きだった渡邉氏は、科学問題にそれほど関心がなかった。そして福島第一原発事故には嫌悪感を示し、原子力を嫌い、再エネが代替策と思ったようだ。読売はかつての社主の正力松太郎が原子力の平和利用を訴えたこともあり、原子力の活用にはこれまで肯定的だった。
読売OBに「渡邉さんの原子力嫌いが、この報道姿勢に影響したのか」と、渡邉さんが亡くなった後に、聞いたことがある。その人は、「読売は、一人の男が論説を支配する変な会社ではないよ。ナベツネさんは論説への細かい指図は晩年にはしなかった」と笑った。しかし「もしかすると社内のエネルギー報道の雰囲気に影を落としたのかもしれない。忖度があったのかも」とも述べた。
ゆがめられるエネルギー報道
第7次エネルギー計画が今年2月に決まった。この計画の私の評価を要約すると、いろいろ問題はあるが、脱炭素に加えて、経済安全保障にシフトした内容を評価している(IEEI、25年1月9日寄稿「常識的な内容を評価-第7次エネ基の原案を分析」)。
読売新聞は「エネルギー計画 脱炭素と電力の安定供給図れ」(25年12月18日社説)という、賛成とも反対とも言わない中道的な意見を示した。しかし経済安全保障への言及がなく、私には物足りない。
しかし、他のメディアの報道に私はおかしさを感じた。このエネルギー基本計画を原子力への姿勢だけで評価しているのだ。朝日新聞は社説で「疑問素通りの方針転換」(2月19日)と、原子力への国民的批判に、エネ基は応えていないと主張した。
東京新聞は「トランプ大統領を「隠れみの」にして脱炭素は軽視? エネルギー基本計画に目標が低めな「リスクシナリオ」」(同日)との解説記事を公開した。その内容はトランプ氏の脱炭素の動きを経産省がエネ基作りに利用したと言うもの。しかしエネ基は昨年中に概要が固まっていたし、背景にあるのは世界的なエネルギー安全保障への関心の高まりであって、それはずれた見方だろう。
世論は、こうした報道があっても、福島事故直後のように反原発に盛り上がらなかった。野党も政治的争点にできず、政府はこのエネ基を閣議決定してしまった。賢明な日本の人々は、ウクライナ戦争以来の世界のエネルギー情勢、そして上がり続けるエネルギー価格に関心を向けている。
メディアの報道の裏を考える
中立、公平を掲げている各大手メディアは、公的機関のようなイメージを振りまいているが、ただの一企業だ。世論や顧客、上層部に忖度し、事実を歪めて伝えている可能性がある。社説も論説も、各メディアのエネ基をめぐる報道も、正確な情報や合理性だけで報道されているわけではないようだ。発信者の意向が内容に、さまざまな影響を与えている。
ネットの普及で既存メディアの影響力が凋落し衰退していると嘆く声が、メディア関係者から聞こえる。それは「ネットの普及」のためではなく、これまでのメディアのユーザーが自発的に情報を集め、それによって報道のゆがみを知り、信用をしなくなった面があるように思う。事実を完全にゆがめることは、自由な情報の収集が可能な日本では難しい。
もちろんメディアを敵視する必要はない。しかし、そこで流れる情報を確認すること、思い入れをしないことが必要だ。情報はゆがめられている可能性がある。さまざまな情報は、それが本当なのか。また、その情報の裏に何があるのかを考えて接するべきだ。当たり前のことだが、それを誰もが実行しない。メディアにまとわりつく「権威」「発信力」によって、人は判断を間違ってしまう。
「メディアを信じてはいけませんよ」。渡邉恒雄氏は飲み会の席で気軽な気持ちで発言したのかもしれないが、亡くなった今、彼の人生を振り返り、またエネルギーでの報道と世論のずれの広がりを見ながら、この言葉を思い出している。