気候科学は社会的に歪んでいる

気候システムにおいてはポジティブなフィードバックループが注目されている。だが滅多に調査されていない「社会的」なフィードバックループこそが、気候科学のあり方に影響を与え、深刻な結果をもたらしている。


ブレークスルー研究所(Breakthrough Institute) 気候・エネルギーチーム 共同ディレクター

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監訳 キヤノングローバル戦略研究所研究主幹 杉山大志 訳 木村史子

本稿はPatrick T. Brown 2024年4月24日「The Social Feedback Loops That Constrain Climate Science」を許可を得て邦訳したものである。

 もし研究者が真理探究以外の動機を持たない完璧に冷静な理性的存在であったなら、彼らの発表した論文は、現実を直視した客観的な見解として受け止められるだろう。しかし、私が少し前に『The Free Press』誌への寄稿で主張したように、理想化された科学についての概念は幻想でしかない。影響力のある気候科学を必ずしも率直に受け取れないというもどかしさを感じたことから、私は一つの問題点を指摘することにした:それは、最も注目されている研究は、必ずしも冷静な真実の追求とは一致せず、文化的な力や、キャリア形成上のインセンティブに大きく影響されている、ということである。

 この寄稿は、その話題となっている気候科学が政治的な色彩を帯びていることもあり、ちょっとした旋風(リンク1リンク2リンク3リンク4)を引き起こした。気候変動は、精神的なテーマであり、感情が高ぶる。地球を救うために活動する善良なチームと、無知と貪欲の組み合わせから行動を遅らせる極悪非道なチームといった具合だ。気候変動研究の世界では、「良いチーム」の一員であることを主張することには、仕事上も社会的にも大きなインセンティブがある。具体的には、『Science』誌や『Nature』誌のようなインパクトのある学術誌に自分の研究を掲載させるためには、パリ協定で明示されたように、地球温暖化をせいぜい1.5℃に抑えることのメリットがそのコストをはるかに上回るという支配的な説に異議を唱えないことが非常に有効なのだ。

 その一例として、『The Free Press』誌に掲載された私のエッセイのテーマである、『Nature』誌に最近掲載された私自身の論文を紹介しよう。Nature 誌への掲載は今回で3回目である。私は『Nature』誌の気候専門誌『Nature Climate Change』誌にも論文を発表している。また、私は、『Nature Communications』誌と『Nature Geoscience』誌の両誌の専門家査読者も務めている。これらの経験や、これらの学術誌に掲載されるための様々な失敗を通して、私は、支配的な物語(ナラティブ)を支持する方向に研究を組み立てれば、影響力のある出版物での論文掲載への道は、それほど困難ではないことを学んだ。例えれば、「私が研究している現象に対する気候変動の影響の大きさは、他のすべての影響と比較してどの程度か?」と問うよりも、「気候変動は、私が研究している現象にどのような悪影響を与えるのか?」と問う方がより賢いわけだ。最近のネイチャー誌の論文の場合、例えば、私は具体的に気候温暖化が山火事に与える影響に焦点を絞ることにしたのであるが、温暖化が数ある重要な原因因子のひとつに過ぎないことは明らかである。

 このような枠組みの決定は、他の研究者が逆の方向で枠組みの決定をすることによって補完されるのであれば、必ずしも歪むものではない。しかし、社会的、キャリア的なインセンティブによって、知名度の高い研究のほとんどが同じようことばかりを強調するようになると、全体として歪みが生じる。そうなると、科学的なナラティブは凝り固まり、自己強化を続けることになる。そして今、それが気候変動科学で起きていることなのだ。つまり支配的な物語に固執するあまり、そして良いチームの一員でありたいという願望により、気候変動への適応能力を高めることが証明されている直接的かつ実践的な、現場に根差した対策は注目されなければ資金も付かなくなる。その一方で、人類、特に低所得国において、エネルギーの選択肢を狭めてしまう、という重大な懸念から目がそれてしまう。

 以下では、過去5年間に『Nature』誌と『Science』誌に掲載された気候変動に関する論文のうち上位50本の論文について調べてみよう。

インパクトファクター(影響力)の大きい論文が望ましい理由

 結局のところ、研究とは、社会的な存在である。自分が行ったことを仲間や研究資金提供者、そして一般大衆に伝えなければ、その研究を全く行っていないのと同じことになりかねないのだ。研究成果を伝える方法は、査読付き学術誌に発表することだが、どの学術誌に発表するかで大きな違いが出る。学術の世界界で成功するためには、影響力のあるジャーナルで論文を発表することは、必須ではないが、役に立つことは間違いなく事実である。『Science』誌や『Nature』誌のような影響力のある学術誌の編集者が、注目度の高い研究の門番としての役割を果たし、その結果、主流の科学的なナラティブを形成する上で過大な影響力を持っている。これを指摘したのは私が初めてではない。

 その理由のひとつは、インパクトファクターの大きい論文によって自分の研究が注目されるからである。過去5年間で、最もネット上で注目を集めた気候変動論文50本のうち、32本(64%)が『Nature』誌と『Science』誌(およびそのサブジャーナル)、さらに11本が非常に権威のある米国科学アカデミー紀要(PNAS)とランセット誌のものだった。このように、最も注目された50本の論文の86%は、インパクトファクターの大きいとされる学術誌から発表されたものであった。

 これらの学術誌に掲載された論文が最も多く報道されるのは偶然ではない。これらの学術誌には洗練された広報機関が備わっており、論文発表のかなり前に主要メディアに直接プレスリリースを配信し、連携したメディアキャンペーンを円滑に進めている。これは、学術誌にとって理にかなったことである。というのも、とりわけ、出版にまつわる大々的な広報活動は、いわば「有名税」、つまり大学に課される年間数百万ドもルの購読料や、出版する研究者に直接請求される高額な手数料(現在、研究者が『Nature』誌に論文を発表するには1つの図表につき870ドルかかり、ペイウォールを外すには1万1690ドルかかる)を正当化するのに一役買っているからである。

 私が最近発表した『Nature』誌の論文は、国内外70以上のメディアで取り上げられた(その後、私がその論文をみずから批判する前に)。このように注目されることは、一般の人々だけでなく、他の研究者にも注目され、その研究者が引用する可能性が高くなるため、望ましいことである。引用数は、論文を発表した数以上に、研究者の著名性を測る主な定量的指標である。
 2017年に私が発表した『Nature』誌掲載の論文は、次に数多く引用されたわたしの論文の実に4倍以上も引用されているのである。

 インパクトファクターの大きい論文の価値を認めているのは、私だけではないだろう。研究者を対象とした調査によれば、影響力の高い論文を発表しているキャリア初期の研究者は、大学の教員職をオファーされる可能性が6倍高く、学術雑誌の知名度雑誌のインパクトファクターは、昇進や終身在職権の決定において非常に重視される。採用委員会は必然的に、学術誌の名声を評価のための容易な手段として利用する。というのも、異なる専門分野で働く何十人もの候補者の履歴書の質を同時に評価することは、ただでさえ非常に難しいからである。

 インパクトファクターの大きい論文に魅力がることは、掲載を巡る競争が激しいことを意味する。『Nature』誌と『Science』誌は極めて厳しい選別が可能で、それぞれ投稿された研究論文の約92%とプレプリントの94%をリジェクト(掲載拒否)している。したがって、研究者は論文と一緒に提出するカバーレター(自己紹介文)で自分の研究を「売り込む」よう指示される。しかしもちろん、これらの学術誌に受け入れられやすいように研究を成形するのは、通常、論文投稿のずっと前、つまりまさに研究のごく最初の段階から始まっているのである。

論文が掲載される可能性を最大限に高めるために、研究はどのようにあるべきなのか?

 影響力の高い学術誌に掲載される可能性を最大化する簡単な戦略のひとつは、これらの学術誌の指導者が支持するハイレベルなメッセージに沿うように研究を組み立てることである。『Nature』誌や『Science』誌のトップらは、パリ協定の政治的目標、すなわち、世界のエネルギー経済と農業経済を急速に転換させ、地球温暖化を産業革命以前の水準から1.5℃(あるいはせいぜい2℃)以下に抑えることについて、支持を明確にしている。

 例えば、マーシャ・マクナット氏は『Science』誌の編集長時代、『2℃を超える地獄』の中で、人類は自然に対して罪を犯しており、2℃以下の温暖化を維持するために社会は経済的幸福を犠牲にすべきだと示唆していた。同様に、『Nature』誌の編集長マグダレーナ・スキッパー氏も、パリ協定とその気温制限の積極的な支持者(リンク1リンク2)である。

 『Nature』誌は、2020年アメリカ大統領選挙でジョー・バイデンを正式に支持した。理由としてはパリ協定を支持する彼の政策を挙げた。しかしその後、明確な政治的発言に対する反発に直面し、政治的発言を二転三転させた。『Science』誌のホールデン・ソープ現編集長は、科学雑誌が特定の政策や政治家を支持するという考えを擁護している。これはまるで、科学の権威の及ぶ範疇には、政府が政策決定する際に用いる権力の大きさに至るまで、気候問題について何もかも包含している、と主張しているかのようだ。

 これはすべて、 『Science』誌や 『Nature』誌が、これらの政治的目標を損なう研究よりも、それを支持する研究に共感するという明確なシグナルを送っているわけなのだが、こうした傾向は、そもそも科学そのものに基づいていると言えるのだろうか?

科学に基づく政策なのか、それとも政策に基づく科学なのか?

 1.5℃と2℃の地球温暖化目標は、気候科学によって初めて定められ、その後パリ協定のような政策に盛り込まれたというのは、広く浸透している間違った認識である。

 実際、2℃という数字は1970年代後半に初めて提唱されたもので、気候変動の影響に関する高度な研究が登場するずっと前のことだった。その当時、2℃という数値は、地球が過去10万年間で最も暖かかった時期を表すと考えられていた。1992年までには、人類は2℃以上の温暖化を避けることを目指すべきだというのが常識となっていった。そしてそれは、2009年のコペンハーゲン合意で、国連によって「気候システムへの危険な干渉」として正式に成文化された。その6年後、国連のパリ協定は、環境保護主義者や一部の交渉官からの圧力もあり、2℃の目標を確認すると同時に、地球温暖化を1.5℃に抑えるという目標を明確にしたのである。

 1.5℃の上限を明確にした後、国連はそれを支持する報告書を気候変動に関する政府間パネル(IPCC)に求めた。この報告書は、メディアによる誤った報道にもかかわらず、1.5℃を超えると地球温暖化が壊滅的になるとは述べておらず、また、地球温暖化を1.5℃に抑えることが、世界全体にとってすべてのコストと便益の理想的なバランスであるとも主張していない。単に、1.5℃における気候変動の影響は、2℃におけるそれよりも深刻ではないと述べたに過ぎないのである。

 言い換えれば、これらの地球温暖化の抑制目標は、政策立案者であるエリートたちの集団的判断から生まれたものであり、ある種の決定的な科学的結論として解釈されるべきではないのである。実際のところ、さまざまな個人、社会、種にまたがるすべてのコストと便益を空間的にも時間的にも客観的に秤にかけて、最適な脱炭素化率を決定的に特定する方法は、科学には存在しない。これらの温度目標は、純粋に科学的であるというよりも、環境哲学の規範的な前提、すなわち地球に影響を与えることは本質的に間違っており、必然的に自己破壊的であるという考え方に、深く影響されているのだ。しかし、運動家のごとき研究者(アクティビスト・リサーチャー)たちは、主観的な哲学的考察に基づく議論は、科学の権威に基づく議論よりも弱いことを知っている。そのため、多くの研究者は「ステルス・アドボカシー(隠れアドボカシー)」、つまり、規範的なコミットメントに基づくアドボカシーを、純粋に冷静な科学的プロセスの成果であるかのように装って行動しているのである。

 このような歴史的経緯をみると、気候変動による影響に関する科学は、哲学的な戒律や政策提言がすでに確立された環境の中で成熟したことがわかる。すると、社会的な地位向上や学者としてのキャリアアップの観点からは、確立された哲学や政治的目標を多かれ少なかれ支持する研究を行う方が、それらに逆らう研究を行うよりも、常に安易であった。

こうして生まれた論文の規範

 その結果として、「科学に基づく政策」ならぬところの、「政策に基づく科学」が量産されることになる。私にとって、このことは2018年になって次の出来事で明らかになった。『Nature』誌に掲載された論文「Large potential reduction in economic damages under UN mitigation targets(国連の緩和目標の下での経済的損害の大きな潜在的削減)」が、「Limiting temperature increase to 1.5 Celsius could result in $30 trillion of savings for global economy, study shows(気温上昇を1.5℃に抑えれば、世界経済に30兆ドルの節約をもたらす可能性がある)」という見出しを付けられて、よく信頼されているメディアで報道された。実際のところ、この研究はそのようなことを示してはいない。タイトルや見出しからもそれとなく推察できるが、この研究はパリ協定の制限に関する費用便益分析を行ったのではない。世界経済を強制的に脱炭素化するための誰もが知っている莫大な費用を無視して、便益のみの分析を行ったものである。

 『Nature』誌は、脱炭素化の費用を単独で分析した論文を発表しているが、それらの研究の枠組みは便益の分析とまったく異なっている。費用はあくまで乗り越えることのできる障害として扱われているのだ。結果の出方に利害関係のない公正な文献であれば、同じような枠組みで費用のみを分析した論文、つまり「国連の緩和目標の下での世界経済への大きな潜在的損害」というタイトルの論文を掲載できるはずであろう。しかし、そのようなタイトルが日の目を見る可能性は極めて低いと私は考えている。なぜならば事実として間違っているからではなく、大多数の研究コミュニティの感性に対してあまりに刺激的だからである。

 私は、このような仮説的な費用のみの分析を発表することはできないだろうと思っていたが、おそらく『Nature』誌はより完全な費用便益分析を載せることには関心を持つだろうと考えた。そこで2018年後半、私は「Net Economic Impact of UN Global Warming Mitigation Targets(国連地球温暖化緩和目標の正味経済効果)」と題する論文を同誌に投稿し、前述の論文で計算された便益を、脱炭素化のコストに関する主流派の推計の文脈に位置づけた。その結果、便益と同時に費用を考慮した場合、便益のみの分析の結論は覆され、パリ協定の目標は2100年まで世界経済に正味の損害をもたらすことが明らかになったのである。

 私たちの論文は査読段階には進まなかった。おそらく、世間の関心が不十分であり、発展性も不十分であるという理由で、査読に進む前の段階で編集者にリジェクトされたのである(その後、PLOS ONEに改訂版が掲載された)。しかしこのような査読拒否の理由は納得できない。世界における支配的な気候変動政策についての便益のみの分析結果を覆す費用便益分析は、気候変動研究において、最も興味深く、最も重要な研究成果であるはずだ。本当のリジェクトの理由は別のところにあったのではないか。つまり、 歓迎されなかったのは、研究した対象ではなく、研究の結果だったのだ。

 「気候変動は、自分の研究対象である現象にどのような悪影響を与えるのか」という問いかけがひたすら繰り返されていることは、インパクトファクターの大きい論文誌の至るところに見て取れる。他の例としては、『Nature Climate Change』誌に掲載された「The burden of heat-related mortality attributable to recent human-induced climate change(最近の人為的気候変動に起因する暑熱関連死亡の負担)」が挙げられる。その要旨は次のように結ばれている:

 我々の調査結果は、気候変動による公衆衛生への影響を最小化するために、より野心的な緩和策と適応策が緊急に必要であることを裏付けている。

 しかし、寒冷に関連した死亡率の変化だけを調べた相互研究では、言うまでもなく、温暖化によって死亡率が減少していることが判明するだろう。しかしだからと言って次のように結論付ける研究を発表することができるだろうか。

 我々の研究結果は、寒冷関連死亡の減少を遅らせる可能性があるため、より野心的な緩和戦略を求める声に水を差すものである。

 常識的に考えれば、やはり「ノー」だろう。その研究結果が厳密に間違っているからではなく、そのような結論はあまりにも支配的な物語に反するからである。

 これらの学術誌の嗜好に関する私の見解に影響を与えたもう1つの経験は、気候影響に関する文献の重大な欠陥を発見したことである。その欠陥は、『Nature』誌に掲載された解説論文に遡ることができるものであり、異常な気象への気候変動の影響を大幅に誇張することにつながっていた。しかし、この方法論は拡散し、主要なIPCC報告書に組み込まれ、死者数や災害コストを気候変動の影響であるとする最も注目を集めるいくつもの記事の見出しの裏付けとなっている。これらはすべて『Nature』誌の解説ページが発端であったため、私は(別の『Nature』誌編集者の紹介で)その解説編集者に、その元となる論文の欠陥を強調する私の研究を掲載するよう売り込んだ。私がこれまで『Nature』誌に投稿し好評を博してきた論文とは異なり、今回は全く相手にされなかった。結局、私の研究は影響力の低い『Climatic Change』誌に掲載されることとなった。

 さらに、パリ協定を支持することだけに焦点を絞った研究があり、また気候変動については中立的なニュースや良いニュースを取り去って、悪いニュースに仕立て上げることが頻発している。その一例が、『Nature Food』誌に掲載された「Climate impacts on global agriculture emerge earlier in new generation of climate and crop models(気候の世界農業への影響は、新世代の気候・作物モデルではより早く現れる)」である。タイトルは悪いニュースに仕立てられている。しかし読んでみると驚くことに、ここでの最新の作物モデルでは、温暖化とCO2レベルの上昇によって、世界の小麦、米、そしておそらく大豆の収量がむしろ増加する。その一方で、トウモロコシだけは収量は減少する。タイトルと要旨は、このような結果をすなおに書いてもよさそうなものだったが、タイトルはそうなっておらず、要旨の結びの一文では、この研究による最悪のニュースをひたすら強調している:

 …これらの結果は、主要な穀倉地帯が、これまで予想されていたよりも早く、明らかに人為的な気候変動リスクに直面することを示唆している。

 これらの例は、Google Scholarのランキングで、過去5年間に『Nature』誌と『Science』誌に掲載された気候変動に関する論文のトップ50に集約される主要な筋書きの代表的なものである。

 総合1位の「The human imperative of stabilizing global climate change at 1.5℃(気候変動を1.5℃で安定させることが人類にとって不可欠である)」という論文が象徴的だ。この論文は、1.5℃というパリ協定の制限を遵守することをできるだけ強く主張するという意味で、まさに「政策に基づく科学」である。他の論文も同様の論調をとっている。特に強烈な例は、「Harnessing the potential of nature-based solutions for mitigating and adapting to climate change(気候変動の緩和と適応のための自然利用型ソリューションの可能性の促進)」で、結論はこうだ:

 ネット・ゼロ・カーボン排出量の達成と自然保護に積極的な経済への移行には、社会としての行動様式を根本的に変え、物質的な豊かさよりも生活の質と人間の幸福を重視し、自然を征服するよりも自然とのつながりを重視するような世界観への転換も必要である。気候変動や自然保護に関する草の根活動の高まりのようなシグナルは、この転換が起こりつつあることを示している。

 人間の幸福と物質的な豊かさ、自然との 「つながり」と自然の征服とを対立させる枠組みに同意するかどうかは別として、こうした枠組みには人間の主観的な価値観が込められていることは明らかである。さらに、草の根運動を通じて支配的な世界観の変化を応援することで、研究者の共感がどこにあるかが明らかになる。しかし、このようなアクティビズムの皮肉な点は、研究があからさまに規範的になると、本質的に客観性を失い、その結果、活用しようとしている科学的権威そのものが損なわれてしまうことである。

 データベースにおける上位50位までのほとんどの記事は、上記の2つの例のようなあからさまな政策提言(アドボカシー)の論調はとっていないが、大多数は、少なくとも方向性としては支配的なシナリオを支持している。私の推定では、ほぼ4分の3が、より迅速な温室効果ガス排出削減を、典型的には、「気候変動は、私が研究している現象にどのような悪影響を与えるのか?」 という問いかけによって、明示的または暗黙的に奨励している。研究の半数以上が、より中立的なトーンではなく、気候変動について悲観的または警告的なメッセージを用いており、また不吉あるいは事件見出し調のタイトルを用いている。楽観的な論調を採用しているものはほとんどない。私たちが歴史的に普遍的に経験してきた事実として、気候に対して人間社会が頑健になってきたことを受け入れていない。驚くべきことに、過度に制限的なエネルギー政策のリスクに焦点を当てたものは皆無である。こういった傾向は、このような学術誌での出版を目指す研究者へのシグナルとなり、同じような論文を増やすことで、「社会的フィードバックループ」が完成することになる。

 この「気候変動分野のトップ50件の論文」で特に目を引くのは、反証可能な仮説検証の結果が報告されている科学的手法の明確な例(医学のダブルブラインド・ランダム化比較実験のようなもの)が、論文の10%にも満たないことである。もちろん、これには現実的な理由がある。100年規模の地球規模の実験を行うための地球のコピーは存在しないから、というわけである。しかし、科学が権威づけられてきた理由は、反証可能な仮説検証によって、人間のバイアスや嗜好から比較的免れることが可能となったことだ。これが大きな意味を持っている。
 しかし、注目度の高い気候変動の影響研究に見られがちなのは、定量的分析に裏打ちされた「説得力のある議論」と呼ぶべきものであり、そうした主張は、直ちに検証可能な主張と同じような厳格さを持ち合わせてはいない。この分野における結論なるものは、純粋な論理や経験的データによっては、ごくおおざっぱにしか制約されていないだ。そこで展開されるストーリーには、大きな抜け穴や、創造性、そして主観性が存在する。

 なおかつ、多くの方法論は、その分析のために特別に開発された斬新なものであると宣伝されている。仮に、望ましい結果を得るために方法論が意図的に選別されることはないと仮定したとしても(可能性は極めて低い)、望ましい結果を導き出す特定の方法論をたまたま使用した研究グループだけが、『Science』誌や『Nature』誌への掲載というゴールにたどり着くまでの困難な道のりを乗り越えられるという、大きな生存バイアスが働いていることに変わりはない。

 もちろん、上に挙げたパターンにも例外はある。『Science』誌や『Nature』誌が、支配的なシナリオに明確に反するような論文を掲載することもある。しかし、これはかれらはが公平な規則に則っていると主張するための例外である。実際には、一線を踏み外すことは、その意義以上にトラブルを招きかねない。

 『Science』誌に掲載された論文「The Global Tree Restoration Potential(全球規模での森林修復ポテンシャル)」について考えてみよう。オンラインによる注目度ランキングでは過去5年間で4番目に注目された論文だが、Google Scholarにおける最も関連性の高いリスト(被引用回数に大きく基づいている)のトップ50には入っていない。なぜか?それは、気候変動緩和の主要な戦略として、温室効果ガスの排出削減よりも植林を強調したからである。これは環境保護コミュニティの幅広い層から、重要な気候変動対策を後退させるものと見なされ、激しい反発を招いた。

 『Science』誌はこの論争に対し、3つの技術的コメント(他の研究者からの細かな批判)を論文に添付することを求めた。原著論文の「樹木の修復は気候変動に対するこれまでで最も効果的な解決策である」という主張には、それは 「正しくない」とみなす記述が補足された。「最も効果的」という言葉には、その解決策を実行するのがどれほど難しいかという主観的な考慮が含まれているため、厳密に 「正しくない」とみなすことはできないにもかかわらず、である。また著者たちは、「樹木の再生が温室効果ガスの削減よりも重要であるとか、それに取って代わるべきだという意味ではない」と公式に付け加えた。

問題の全体像を把握するための代替的な物語(ナラティブ)

 「最も注目されている論文」に共通する枠組みの最も重要な側面の一つは、これらのシステムとその代替案の費用と便益を総合的に評価するのではなく、現在のエネルギーと農業システムの副次的な影響である気候変動のネガティブな影響だけに焦点を絞る傾向にあることである。前者こそが、パリ協定のような地球温暖化制限を包括的に評価するために必要なレベルの分析であるにも関わらず、である。

 現在のエネルギー・農業システムの正味の効果を評価するとなると、ネガティブな面ばかりが強調されるため、過去50年間、1.3℃程度の温暖化にもかかわらず、世界の人間社会における気候変動の影響を受けやすい活動のほとんどすべてが、改善を示してきたという事実が無視されてきた。例えば、1人当たりの農作物収穫量利用可能なカロリーは増加し、栄養失調飢饉による死亡率は減少したし、安全な飲料水を利用できる人口の割合は増加している。マラリアや下痢性疾患など気候に影響される疾病の発生率は減少し、自然災害による死亡率は減少、また最適でない気温(高温と低温)による死亡率は減少した。そして、極度の貧困状態にある人の割合が激減したのである。

 このような良好な傾向を強調することを怠ると、成功の理由について注目される研究が少なくなり、同じような傾向をさらに助長することが難しくなる。しかし、このような成果が生まれた背景には、人類の長期的なエネルギー使用量の爆発的増加があったことは疑う余地がない。なぜなら、30億人がいまだに極度のエネルギー貧困状態にあり、人類はまだ多くのエネルギーを必要としているからだ。しかし、パリ協定の制限値である1.5℃を守るためには、歴史的に最も効果的であり、間違いなく現在も最も効果的であるエネルギー源を急速に廃止しなければならない、というわけだ。具体的には、気候変動への懸念は、化石燃料インフラへの国際金融の禁止といった政策を通じて、低所得国のエネルギー成長を制限する恐れがある。これは逆効果である。というのも、生活のあらゆる面でエネルギー貧困が緩和されるという明らかな利点に加え、エネルギー利用は気候や気候変動に対する強靭性の向上にもつながるからである。極端な気象災害による平均死亡率や、GDPに占める経済的損害の割合は、高所得でエネルギー利用が多い社会の方が、低所得でエネルギー利用が少ない社会よりもはるかに低い。1.5℃という極限を考えるに、目標達成のペースを維持するためには、現在から2030年までの間、毎年平均して年間約240基の石炭火力発電所を廃止しなければならない。全体として、COVIDの都市封鎖とそれに伴う経済不況(約5%)に匹敵する温室効果ガス排出削減率を、今世紀後半に排出量がマイナスになるまで、毎年達成し続ける必要がある。そしてそのコストは、今後数十年間にわたり、毎年、世界のGDPの5~10%(5~10兆ドル)に相当すると計算される。

 アメリカのような高所得国でさえ、所得分布の下位に位置する多くの家庭は、エネルギーコストを支払うために、屋内との温度差に耐えたり、医療や食料を犠牲にしたりすることを余儀なくされている。エネルギーの選択肢を制限するような政策は、エネルギー供給をより困難にするが、これは人間の幸福を害する可能性が高い。

 しかし、化石燃料による工業化を背景とした経済的・技術的発展によって、人類の気候に対する強靭性が高まっていることを認めて、それを強調し、研究している論文は、『Science』誌や『Nature』誌にはほとんどない。上位50位までのデータベースには、過度に制限的なエネルギー政策に警鐘を鳴らす、あるいは悲観的な論調を採用した論文は一つもない。その代わりに、化石燃料による工業化の有害な影響だけを切り出している、例えば『Nature』誌に掲載された「Comprehensive evidence implies a higher social cost of CO2 (包括的な証拠が示唆するCO2の社会的コストの高さ)」のような論文だ。

 全体として、注目されている科学文献の総計は、気候への悪影響に重点を置き、気候への強靭性や過度に厳しいエネルギー制限のリスクに重点を置いていないため、物語全体の大部分が抜け落ちている。気候変動は大きな懸念事項であり、特に、地球規模での人為的CO2排出量が正味ゼロになるまで気候変動は止まらない。しかし、1.5℃という制限を守るには、世界のエネルギー経済と農業経済を大規模かつ急速に再編成する必要があり、それには大きなリスクが伴う。いずれにせよ、このような事態が起きているのは、「良いチームと悪いチーム」と、専門家へのインセンティブという、社会的力学によるものだ。

社会的フィードバックループが公衆の理解を歪めている

 賢明なる研究者は、インパクトのある論文発表や自身のキャリア成功のためには、他の道よりもはるかに成功しやすい、社会的力学に沿った道があるということを、はっきりと理解している。そのような道は、学術誌の責任者から直接話を聞いたり、一貫して学術誌を読み続けたり、あるいは出版後に主流のシナリオに反する論文がどうなるかを観察したりすることで、知ることができる。こういった出版状況に関する知識こそが、支配的な物語を支持する論文を間接的に誘引し、その結果生まれる覇権を自己増強するフィードバックループを完成させることになるのだ。

 気候温暖化が山火事に及ぼす影響に関する『Nature』誌の論文を執筆する際、私はこの知識を活用した。論文が発表された後、私が学術誌批判を始めるまでは、私は好意的な注目を浴びた。私は同僚たちから祝福の言葉を浴びせられ、さまざまなメディアから1ダース以上の友好的なインタビューを受けた。またトロフィーのようなものとして、コーヒーカップに私の論文を印刷するよう勧められたりもした。

 このような状況が一変したのは、気候への悪影響や排出規制に過度に焦点を当てているとして、知名度の高い学術誌を批判する寄稿を私が発表した後のことである。私の主張は、現在の学術誌は人間の社会的影響に影響されず、真実の純粋な裁定者であるという考えに水を差すものであった。このため、気候政策に関する規範的主張を隠すために科学の権威を利用している、多くの一般人向けの気候科学者や気候ジャーナリストにとっては脅威となった。ブログや、特にツイッターでの反撃は激しく、しばしば中傷的であった。

 お祝いのコーヒーマグカップと個人攻撃との間には、教訓的な関係が見て取れる。研究者は、支配的なストーリーを支持することで社会的に報われ、それを否定することで排斥される。特に、私の批評に対する否定的な反応は、それを目の当たりにしていた同僚にとっては、「悪い側」の研究チームだと思われると、気候科学専門家コミュニティから追放されることをあきらかにするものであった。多くの力強い支持のメッセージを受け取ったが、そのほとんどは私的なもので、Eメールか、直接会ってのものだった。私に同情的な同僚たちは、公の場で支持を表明すれば、批判の波が押し寄せるだけだとわかっていた。

 公的な非難と私的な支持というこの二極分化は、学術界における自己検閲の証拠である。調査によると、教授の34%が論争を呼ぶような研究を避けるよう同僚から圧力を受けたことがあると回答しており、91%が学術出版物、会議、プレゼンテーション、ソーシャルメディア上で、少なくとも「いくらかは」自己検閲する可能性があると回答している。これらの数値は、学術科学者たちが可能な限り真実を追求する方向に向かうことを望むのであれば、大きな問題である。そこからは、根本的な経験科学的証拠は出てこない。研究を生み出している人々の意見を代表するものでもない。皮相的なコンセンサスがもたらされるだけである。

 真に開かれた科学的議論の中から、自然と支配的な科学的物語が生まるならば、一般大衆はそれを信頼することができる。しかし、その物語が、知識生産システムの中で引き起こされる社会的フィードバックループに大きく影響されている場合、その科学的物語の本当の全容が正確に伝えられる可能性はかなり低くなるのである。

社会的フィードバックのループを断ち切り、本当の物語を伝える余地を増やす

 この社会的フィードバックループを断ち切るために必要なのは何か。学術誌側のトップダウン的な構造改革と、ボトムアップ的な文化改革であろう。

 例えば、知名度の高い学術誌が、自己増強的な研究テーマに対してより強固な警戒線を設ければ、気候変動問題の現状について、より正直で全体的な姿が浮かび上がってくるだろう。これは、支配的な物語に対する、より「体系化された反証」の範疇に入るだろう。その一環として、結果が判明する前に、研究上の疑問(リサーチ・クエスチョン)や提案された方法論に基づいて論文を受理することができる。そうすることで、より中立的な研究的疑問を導くことが出来る。そして注目される論文になる可能性を高めたいがために研究的疑問や方法を調整しようとする衝動を抑えることができるだろう。また、「お蔵入り効果」(最も派手な成果のみが出版され、またメディアで宣伝される)にも対抗できるだろう。その他の改革としては、研究をデザインする研究グループと研究を実施する研究グループを分離したり、同じ問題を調査するために複数の研究グループに委託したりすることが考えられる。また、学術誌は査読者制度を再構築し、各論文と一緒に「悪魔の代弁者」による完全な反論を掲載することもできる。

 最近発表された科学への検閲についての考察からの以下の2つの提案は、真剣に検討するに値する。第1に、不採用となった原稿の査読と編集部決定レターの公開である。学術誌が受理された原稿の査読を公開することは一般的になりつつあるが、不採択について透明性を確保することは、説明責任を高め、公正さを促し、出版における偏りをよりオープンに検証することを可能にするだろう。同様の目的のために、第2に、学術誌は出版実務の監査を受け入れるべきであり、監査人は、方法論が結果によって異なって精査されるかどうかを検証できるようにすべきである。そして理想的には、学術誌の威信を測る主な指標は、「インパクト」(引用頻度)の指標から、科学的中立性と信頼性の指標に移行するべきであろう。

 気候科学を扱う場合、学術誌の編集者は、パリ協定を支持する支配的なシナリオに反する論文に対して、もっと開かれた態度を取らなければならない。彼らは、パリ協定を指示するナラティブの特集号を組み、オプエドを執筆しているが、ではなぜ、気候変動に対する頑強性を高めることに成功した研究や、過度に制限的なエネルギー政策のリスクを明確に歓迎するオプエドや特集を組まないのだろうか?学術誌の責任者がこのようなシグナルを発すれば、「良いチーム」と「悪いチーム」の力関係が緩み、より誠実で完全な科学文献が育まれ、最終的には社会にとってより有益なものとなるだろう。

 気候変動問題を扱うジャーナリストは、研究者が客観的な真実を求める以上の動機に直面していることも理解しなければならない。したがって、無批判に研究を宣伝・普及させるのではなく、科学者と一般大衆の間のフィルターになることがジャーナリストの役割であると考えるべきである。

 科学や専門家、研究機関に対する信頼の危機嘆くのは当たり前なことになっているが、信頼低下の多くはしごく当然のことである。研究者や 学術誌が、その科学的権威を利用して特定の政治的目標を推進しようとしていると一般大衆が感じると、皮肉にもその権威そのものが損なわれてしまう。しかし、社会の重要な意思決定に情報を提供する(独裁するのではない)ためには、研究者や学術誌が必要なのである。科学機関は、知的謙虚さを示し、その結果がどのような社会的な結果をもたらすかには利害関係を持たず、多様な意見を受け入れる姿勢を示し、争点となるテーマについて活発な議論を行うことで、国民の信頼を取り戻さなければならない。