脱炭素への執着はどのように形成されたか

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監訳 キヤノングローバル戦略研究所 研究主幹 杉山大志 訳 木村史子

本稿は、リチャード・リンゼンMIT名誉教授(マサチューセッツ工科大学アルフレッドスローン基金名誉教授-大気科学)によるゲスト投稿、How did the obsession with decarbonization arise?, Net Zero Watch. 2024.3.20. を、Net Zero Watchの許可を得て翻訳したものである。

 現在の脱炭素化への執着は、一般労働者が家と車を持つことができるようになった第2次世界大戦後の驚くべき時代への反動にルーツがある。私は、50年代から60年代初頭にかけて学生だった。当時、人々の稚拙な嗜好と物質主義に対する嘲笑が、風土病のように蔓延していた。

 ベトナム戦争では、労働者階級が徴兵される一方で、学生は徴兵猶予を求めた(この時代、学生はまだ一種のエリートだった)。 学生たちは、ベトナム人が北ではなく南に逃げているという明白な事実を無視しながら、ベトナム戦争は非合法だと主張することで、自分たちの行動を正当化した。アメリカ政府を悪とみなし、打倒に値する、とするのが流行だった。反対運動は、ウエザーマンやSDS(Students for a Democratic Society)といった活動家グループによる暴力行為にしばしば発展した。
 1968年当時、私はシカゴ大学で教えていた。夏休みをコロラドで過ごし、その間学生にアパートの留守番をさせていたのだが、帰ってみるとパトカーがアパートを監視していた。私の留守中その学生は、民主党大会の間、私たちのアパートをSDSの活動拠点にしていたらしい。アパートには、シカゴの水道に毒を盛る方法を記載したものを含め彼らの書類が散乱していた。
 このような時代はニクソンの当選で終わったように思われたが、今では、これは「覚醒(woke)」の諸機関を通しての長い行進の始まりに過ぎなかったことがわかっている。現在、教育機関におけるその行進が注目されている。最初は教育学部、次に人文科学と社会科学の高等教育、そして現在は科学・技術・工学・数学(STEM)教育にまで及んでいる。よく無視される事実は、最初に染まったのは、専門家団体だったということである。私の妻は、60年代後半に現代語学文学協会の会合に出席したが、その時、すでにそこは完全に「覚醒」していた。
 現在、教育界が脱炭素運動に乗っ取られていることに焦点が当てられているが、私はそれをもたらした伝統的な見方を無視するのは間違いだと思う。それは環境保護運動を乗っ取ったことだ。1970年以前までは、この運動の焦点はクジラ、景観、きれいな空気と水、人口といったものだった。しかし、1970年4月の第1回アースデイを機に、その焦点はエネルギー部門に移った。エネルギー部門は結局のところ、すべての生産の根幹をなすものであり、それに関連して何兆ドルもの資金が投入されている。

 この乗っ取りは、Environmental Defense Fund(EDF)やNatural Resources Defense Council(NRDC)といった新たな環境保護団体の設立に伴って起きた。Environmental Protection Agency(EPA):環境保護庁や、Department of Transportation(DOT):運輸省といった新しい政府組織の設立に伴っても起きた。そして、専門家はもっとも簡単なターゲットだった。American Meteorological Society(AMS):米国気象学会やAmerican GeophysicUnion:米国地球連合、さらにはNational Academy of Science(NAS):米国科学アカデミーやAmerican Academy of Arts and Sciences(AAAS):米国芸術科学アカデミーといった、名誉ある学会までが脱炭素運動に乗っ取られた。

 この運動に関しては当初は、少しばかり紆余曲折があった。初めは、石炭火力発電所から排出される硫酸塩エアロゾルが太陽光を反射することによる地球規模の冷却に焦点を当てようとしていた。結局のところ、1930年代から1970年代にかけて地球規模の冷却があったようである。しかし、その冷却は1970年代には終わった。さらに、森林を破壊しているとされる酸性雨と硫酸塩を結びつけようとする動きもあった。この考えも不発に終わった。

 70年代になると、CO2が温室効果によって温暖化に影響を及ぼしていることが注目されるようになった。政治統制おたく(フリーク)たちがCO2を抑制することに魅力を感じたのは明らかだった。CO2は炭素を主成分とする燃料を燃やせば必然的に発生する。また、呼吸からも発生する。しかし問題があった。CO2は、自然に発生する水蒸気に比べれば、温室効果ガスとしては微々たるものだったのだ。CO2を倍に増やしても、温暖化はわずか1℃未満にしかならないだろう。

 70年代初頭に発表された真鍋氏とウェザラルド氏の論文が、この問題を解決した。非常に非現実的な大気の一次元モデルを用いて、大気が温暖化しても相対湿度が一定であると仮定すると(何の根拠もなくだが)、CO2の影響を2倍に増幅させるポジティブフィードバックが生じることを発見したのである。これは、自然システムは変化に逆らう傾向があるという「ル・シャトリエの原理」に反していたが、公正を期すために言えば、この原理は厳密に証明されていたわけではなかった。

 ポジティブフィードバックは、今やすべての気候モデルの本分となり、CO2が2倍になった場合の応答は、1℃以下という微々たるものではなく、3℃、さらには4℃という数字さえも生み出されるようになっていった。 そして政治家たちの熱意はとどまるところを知らない。理想を追い求めるエリートたちは、10年以内、あるいは20年以内、あるいは30年以内にネット・ゼロ・エミッションを達成することを約束した。一般の人々は、自分たちの幸福に対する実現不可能な要求に直面したが、数度の温暖化にはあまり興味を示さなかった。温暖化が進むからといって、引退したらフロリダではなく北極に移住しようと考える人は誰もいない。

 この抵抗に直面し激昂した政治家たちは、必死に話を変えた。気温の微小な変化を強調するのではなく、地球上のどこかで毎日のように起こっている極端な気象現象を、気候変動だけでなく、CO2の増加(そしていまではメタンや亜酸化窒素のような更に温室効果への寄与が小さいものまでも含めて)を気候変動の証拠として指摘するようになったのだ。極端な気象現象は、排出量と有意な相関関係がないにもかかわらず、である。

 政治的な観点からすると、極端な気象現象は、小さな気温の変化よりも感情的なインパクトを与える便利なビジュアルを提供してくれる。政治家たちは、気候変動が存亡の危機であると主張することにまで及んでいる。気候に関する懸念を裏付けるために作られた公的な報告書は、決してそのようなことを主張していないにもかかわらず、である。

 一方、温暖化に関連する研究で、1つだけ本当に問題だったという例外があったことを書いておかねばならない。それはオゾン層破壊の問題である。しかし、この問題でさえも別の目的があった。フロンを禁止するモントリオール条約の交渉にあたったアメリカのリチャード・ベネディックは、モントリオールからの帰途、MITを訪れた際、成功をほくそ笑んで 「私たちはまだ何も目にしていない」と述べた。「CO2がどうなるかを待つべきだ」と。要するに、オゾン問題はCO2による地球温暖化に焦点を当てる前の予行演習だったのだ。

 もちろん、政治家を動かしているのは権力の魅力だけではない。エネルギー部門の方向転換のために何兆ドルもの資金を提供できるということは、何兆ドルもの資金の受け手がいるということである。そしてその受け手は、政治家たちの選挙キャンペーンを何サイクルにもわたって支えるにあたって、何兆ドルもの資金のうち数パーセントを負担するだけでよいのである。