汚染逃避地仮説 – 環境と経済の調和を探る


米国コネチカット大学


同志社大学

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汚染逃避地仮説とは

 汚染逃避地仮説は、環境規制が厳格な先進国から環境規制が緩い開発途上国へと、汚染産業の生産地が環境規制から「逃避」するように移動していくのではないかという仮説を指します。しばしば企業は、厳しい環境基準を達成することが難しいと判断すると、投資や生産活動を環境規制が緩い地域に移すことを検討します。これにより、一部の地域では環境問題が改善されたかのように見えますが、実際には温暖化や環境汚染などのグローバルな課題は依然として解決されていない状況が生じます。

 実際、そのような事態が起こっているのでしょうか。汚染逃避地仮説は、長い間環境と国際貿易に関する研究の中で注目を集め、さまざまな検討が行われてきました。これまでの研究からは、環境規制が企業の海外活動に影響を与えることが示されていますが、先進国から途上国への直接的な移転に関する確かな証拠はまだ見つかっていませんでした。 このため、世界銀行は2020年版の『世界開発報告』で次のように結論づけています:

 実証的な証拠は、汚染産業による環境規制の緩い国への大規模な移転が引き起こされていないことを示しています… 貿易コストの低下と環境規制の厳格化により汚染源が発展途上国に逃れることはあり得た事態ではありましたが実際には起きませんでした。

(世界銀行, 2020, p. 125、著者翻訳)

 しかし、私たちの最近の研究は、先進国での厳格な環境規制が、汚染活動を環境規制遵守コストが低い国へと汚染源を移転させ、その結果、その国の環境に損害をもたらし、さらに一般市民の健康にリスクをもたらすという初めての実証結果を示しました。具体的には、使用済みの鉛蓄電池のリサイクルに焦点にあて、アメリカでの大気汚染規制の厳格化が直接的に汚染活動をメキシコへと移転させ、それが結果的にその国の出生結果に影響を与えることを示しました。

なぜ蓄電池のリサイクルなのか?

 鉛蓄電池は、主に自動車などのエネルギー貯蓄に使用されています。私たちの研究においては、様々な理由から蓄電池のリサイクル産業に着目しました。まず第一に、この産業は、人間の健康に特に有害な化学物質である鉛を大量に大気に放出する主要な排出源です。第二に、2009年初頭にアメリカにおいて、鉛の大気質基準値を、一立方メートルあたり1.5 μgから0.15 μgにと10分の1の値へと引き下げました。環境規制の大幅な強化と言えます。一方メキシコにおいては、同基準値は一立方メートルあたり1.5 μgのままでした。第三に、アメリカの鉛蓄電池リサイクル工場の場所とその周辺地域の大気質を特定し、アメリカとメキシコの使用済み鉛蓄電池の取引パターンを追跡し、メキシコのバッテリーリサイクル工場の場所とこれらの工場周辺での出生結果を特定するための詳細なデータが入手できました。

研究結果

 我々の研究結果は以下のことを示しています。まず、アメリカの鉛蓄電池リサイクル工場周辺で、大気中の鉛濃度が政策前後で大幅に減少したことがわかりました。特に、既存の大気中鉛濃度が新しい基準を上回る地域で、鉛濃度が急激に低下し、新しい基準を上回っておらず規制への対応が必要なかった地域と比較して、この効果が顕著でした。これらの結果から、改定された大気質基準が、国内環境における鉛排出量を効果的に減少させたことが示唆されます。

 次に、アメリカからメキシコへの使用済み鉛蓄電池の輸出が規制強化後に大幅に増加したことがわかりました。同時期に、メキシコの類似業界と比較して、鉛蓄電池・リサイクルの産業活動が増加したことも観察されました。これらの結果から、アメリカの大気環境の改善に伴い鉛蓄電池リサイクル工程のメキシコへの移転があったと言えます。

 最後に、メキシコの鉛蓄電池リサイクル工場近く(2マイル以内)での低体重児の発生率が、わずかに距離の離れた地域(2から4マイルの範囲)と比較して有意に増加したことがわかりました。また、公的な健康保険を持たない社会的に不利な家庭に対しこの影響が特に顕著でした。低体重は新出生児の悪い健康を示す指標として代表的に使われるもので、リサイクル工場周辺で健康悪化があったことを意味します。

 これらの結果は、先進国のみにおいて環境規制を強化することは、発展途上国に汚染活動を移転させ、受け入れ国で健康に悪影響を及ぼすことがあることを明確に示しています。

政策的含意

 この研究は、途上国の国々が「汚染逃避地」となることを避けるために、環境政策において先進国と協調する必要性を訴えています。これは、発展途上国が汚染を減少させるためにより厳格な環境規制を採用し、それによってより多くの責任を負うべきかという重要な政策問題に関連しています。

 しかしながら、このような環境政策の先進国と途上国の協調が適切であるか、または必要かどうかは、議論の余地があります。つまり、結局のところ、発展途上国の人々が経済成長と環境・公衆衛生状態とのトレードオフをどのように捉えるかは、彼らに委ねられています。ラリー・サマーズはかつて世界銀行のチーフ・エコノミストであった際に、「ここだけの話、世界銀行は、汚染の多い産業を最貧国(最も開発の進んでいない国々)へ移行することを、より多く奨励すべきではないか?」と述べたことがあります(『エコノミスト』1992年)。この議論においては、私たちの研究結果が示すように、貧しい国の最も貧しい人々が環境汚染の被害をより多く受ける可能性が高く、その声が政策立案に反映されにくいことも考慮すべきです。そのため、気候政策における集団行動を強制するパリ協定のような国際協定は、環境の公平性を向上させる可能性があるでしょう。国際的な規制の整備と共通基準の確立は、環境問題を地域ごとに移転させることなく、一貫性のある対策を打つ手助けとなります。産業界も、自主的に環境に配慮した実践を目指し、地域の未来に対する共同責任を持つことが望まれます。

本研究に関する文献紹介

(1) 原著論文は
 Tanaka, Shinsuke, Kensuke Teshima, and Eric Verhoogen. 2022. “North-South Displacement Effects of Environmental Regulation: The Case of Battery Recycling.” American Economic Review: Insights, 4 (3): 271-88.
となります。以下のリンクから本文、付録をダウンロードすることができます。
本文へのリンク
https://drive.google.com/file/d/1_s4FTDrCzFEb6cW0homlfAn-330AV6iB/view
付録へのリンク
https://drive.google.com/file/d/1yJYn8UzWhQoVwuXdtSWs8Q8kwR5Amitl/view

(2) 本コラムよりやや詳細な日本語による解説として
 手島健介(2023)「環境規制強化の意図せざる帰結-アメリカとメキシコのバッテリーリサイクル産業の事例-」経済研究 第74巻 第1&2号.
があり、以下のリンクから全文を読むことができます。
https://econ-review.ier.hit-u.ac.jp/all-issues/74/1and2/er.cl.031823