「環境万博」と変容したCOP28
竹内 純子
国際環境経済研究所理事・主席研究員
(「産経新聞【正論】」より転載:2023年12月19日付)
今年もCOP(気候変動枠組み条約締約国会議)が開催された。観測史上最も気温が高かった一年となることがほぼ確実とあって、この問題への関心は高まる一方だ。参加登録者数は7万人を超えたという。筆者がこの交渉プロセスに参加し始めたのは15年近く前になるが、当時は政府間交渉の場としての意味が大きく、これほど多様なステークホルダー(利害関係者)が参加するイベントになるとは想像しなかった。
COP28の会場となったのは、2020年に万博が開催されたアラブ首長国連邦のドバイとあって、数多くのパビリオンや展示が立ち並ぶさまは、万博そのものであった。地元小学生らが展示を見て回るさまはかわいらしいし、初めてスタートアップ(起業)の出展スペースが確保された意義は大きい。日本からも10社が参加し、高い関心を集めていた。しかし毎年この規模で開催すべきかは考える必要があろう。砂漠の都市に数万人が集い、エアコンの効いた会場で環境を語ることがシュールだと感じるのは筆者だけではあるまい。
自虐的に過ぎる日本の報道
今回のCOPでも、日本に対して環境NGOが「化石賞」を贈ったことが大きく報道された。化石賞は、会場片隅で環境NGOの若者が2週間の会期中、毎日イベント的に発表しているものだ。彼らの声を軽んじるわけではないが、選定の基準も定かではない。そもそも気候変動は先進国に責任がある、というのが前提で、環境NGOの多くは欧州勢のため、米豪加日あたりが選出されるものと相場が決まっている。
実際にわが国の気候変動対策は遅れているのだろうか。実は先進7カ国(G7)の中で、排出削減目標に対する進捗が軌道に乗っているのは、わが国と英国のみだ。今回の主要議題は、パリ協定の下で各国が掲げた目標への進捗状況の棚卸し(グローバルストックテークと呼ばれる)であり、その点からいえばわが国はむしろ胸を張れる状況だったといえよう。
わが国におけるエネルギー・環境に関する報道は、異様なまでに自虐的であり、国際環境NGOの批判をうのみにするものが多い。わが国もやるべきことが山積していると筆者は考えているが、なにがどこまでできているのか正当に評価しなければ、差分としてのやるべきことが明確にならない。
主要議題である「進捗の棚卸し」は、いわば各国のこれまでの取り組みに対する通信簿であり、既に2年近くかけて整理されていた。何が交渉の対象となったかといえば、その報告を総括するペーパーの記述ぶりである。
〝脱化石燃料〟を巡る戦い
2025年に各国が改めて提出する削減目標や、先進国から途上国への支援の強化に向けたインプットとなることが期待されるため、ここに「化石燃料からのフェーズアウト(脱却)」が書き込まれるかが最大の争点となった。
最終的にはフェーズアウトではなく、トランジションアウェー(移行・転換)という言葉が用いられた。表現が緩和され、また、「移行期に必要な燃料はエネルギー安全保障を確保しつつ、エネルギー転換を促進する役割を果たしうる」ことも明記されたことで新興国や産油国も許容できた。一方、石炭に限らず化石燃料全体の利用低減の方針を明確化し、「勝負の10年」の行動を加速するとしたことで、欧米諸国等も合意できるものとなった。
2030年までに再生可能エネルギー容量を世界全体で3倍にし、エネルギー効率改善率を平均で2倍にするといった目標なども書かれているが、世界全体での目標なので強い反対はなかったのだろう。原子力やCCUS(炭素の回収・有効利用・貯蔵)、低炭素水素や低炭素自動車などの多様な技術を削減対策として加速していくとして、各国のエネルギー政策の選択肢を確保したことは、これまでのCOPの成果文書との大きな違いだろう。
練り込まれた配慮型の成果文書によって、産油国で開催されたCOP28は成功を収めたと評価されている。しかし決裂しなければ成功なのか。成果文書には、途上国での温室効果ガス削減や気候変動への適応のために、莫大な資金が必要とされることも書き込まれたが、先進各国の財政状況がそれに耐えられないことは明らかだ。しかも、米国は大統領選挙の結果によっては、気候変動枠組み条約からも脱退するとも囁かれている。
さまざまな分断と乖離
各国が環境を旗印に成長戦略を描くなかで、さまざまな対立構造も生まれつつある。欧州の炭素国境調整メカニズムに対しては「緑の皮をかぶった保護主義」と反発する声が強い。気候変動が新たな貿易戦争の火種となりつつある。
今年世界で消費された石炭は過去最多となる見込みだとも報じられており、COPの世界と現実との乖離がより一層拡大している。COPは、全ての国が許容できる玉虫色の文書を作成する祭典になりつつあるのかもしれない。