処理水問題の経験から社会に組み込むべき「風評加害」への免疫とリテラシー
林 智裕
福島県出身・在住 フリーランスジャーナリスト/ライター
事前の予想通り、としか言いようがない。
東京電力福島第一原子力発電所のALPS処理水(以下処理水)についての話題は、実際に放出が本格化すると急激にしぼんでいった。
8月に行われた1回目の放出開始直後こそ中国による日本産海産物前面輸入禁止措置も取りざたされたが一時的で、10月に行われた2回目の放出では、ほとんど話題にさえされなかった。「汚染水の海洋放出反対」と繰り返し訴えてきた一部活動家や政党なども、すでに全く別の「反対」運動に移行した。この傾向はGoogle Trendsを見ても明らかだ。
当然ながら、放出後の海域モニタリング注2)でも全く問題は見られていない。そもそも『処理水を流しても有意な「汚染」など起こさない』ことなど、最初から判り切っていたことだ。
さらに、懸念されていた風評被害も起こらなかった。むしろ処理水放出直後からは沢山の応援の声が寄せられ、福島県内自治体へのふるさと納税は急増した。「常磐もの(福島県沖の水産物ブランド)」の相場は下落どころか逆に上昇している。需要に供給が充分に追いついていない状況だ注3)。
つまり、処理水に対する海洋放出反対運動に理が無いのはもはや明らかと言える。まして一部勢力による「汚染水の海洋放出!」に類した非科学的な嘘の喧伝は、「風評や偏見差別」を最も懸念していた当事者に害を与える「冤罪でっち上げ」にも等しかったと断じざるを得ない。結果的に火が付かなかったからといって、火をつけようとして回った行為が免罪されるわけでは無い。
ところが、未だ誰一人として「汚染」を喧伝した冤罪への謝罪も無ければ責任を取ることも無い。具体例の一部は後述するが、「まるで何事も無かったかのように」フェードアウトしようとしたり、「完全なゼロで無ければ汚染水というのは間違いではない」に類した詭弁で開き直ったり、この期に及んで問題があるかのように火を付けようとするケースさえある。
彼らの度重なる言いがかりや偏見に満ちた暴言、理不尽によってこれまで被災地を中心に人々が傷付き、多大な損失を被り、社会のリソースと時間は莫大に空費され、税金や電気代によって賄われる風評対策費は跳ね上がり、廃炉作業や被災地復興も遅れた。中国、北朝鮮、ロシアなどの勢力に付けこまれ国益を損ねる外交的駆け引きのカードにもされた。それらの代償全てを今後も継続的に背負わされるのは、我々一人ひとりの国民だ。
「情報災害」と「風評加害」
このように社会や人々が広域的かつ甚大な損害を被った状況は、一種の「災害」と見做すことも可能だろう。拙著『「正しさ」の商人 情報災害を広める風評加害者は誰か』注4)では、誤情報やそれに伴う社会不安がもたらす災害的状況を「情報災害」と定義した上で、それを誘発する流言飛語や印象操作などの不安煽動を「風評加害」と呼び、災害発生と被害拡大のメカニズムを一定程度記録・可視化させた。
「情報災害」は自然災害に匹敵、あるいはそれ以上の人的・経済的損失をもたらす。たとえば東日本大震災における福島県の犠牲者数を見ると、「震災関連死」が地震や津波による直接死を大幅に上回り、他地域と比べて突出しているが、「情報災害」がこの状況をもたらした可能性は極めて高い。
理由は2つある。まず福島では東電原発事故の影響が最も強かったものの、人々の命を直接奪ったのは放射線被曝そのものではない。事故後に出された国連科学委員会(UNSCEAR)報告書などの科学的知見では、福島の住民には死者はおろか健康被害の発生すら考え難いレベルの被曝しかなかったことが判っている。
次に、強い不安や恐怖、急激な環境の変化などによるストレスはメンタルヘルス悪化や疾病のリスクを高めることが良く知られている。事実、世界保健機関(WHO)は1986年に発生したチョルノービリ(チェルノブイリ)での原発事故から20年後の2006年、この事故における健康影響を『メンタルヘルスへの衝撃は原発事故で引き起こされた最も大きな地域保健の問題である』と総括した。福島と違い、チョルノービリでは多くの住民に特異な放射線被曝が発生したにもかかわらずだ。
この重要な教訓は、東京電力福島第一原子力発電所の事故で全く生かされなかった。ALPS処理水問題も含め誇張された「汚染」の喧伝による不安と恐怖の煽動が繰り返された上、それら印象操作や流言飛語の多くは「言論の自由」「素朴な不安に寄り添え」に類した詭弁で正当化されて、事実上野放しにされてきた。
それらは経済のみならず人的な被害をも誘発させた。多くの人々に深刻な誤解や対立を与え、人生の重大な決断を誤らせ、科学的見地からは不要であった地域からの避難や家族の離別を促したケースさえあった。人々が「放射能」を過度に恐れて屋外での行動を避けた結果、肥満や糖尿病の増加や子ども達の運動能力低下にも繋がった。
福島への偏見差別も広まり、避難先でのいじめも多発した。これらが当事者のメンタルヘルスに深刻なダメージを与え続けた事実は論を俟たない。福島で生じたおびただしい犠牲の背後には、「情報災害」「風評加害」の存在がある。
「風評加害」とは具体的にどのようなものか
情報災害を誘発させる「風評加害」の手法には、たとえば以下のようなものが典型例として挙げられる。
- A.
- 紛らわしいタイトルをつけて誤読や誤解を多発させる
- B.
- 事実の中にいくつかの「勘違い」(故意でないことを装った間違い)を混ぜ込む
- C.
- 数値の意味や相場観を伝えないまま「過去と比較して◯倍」などと見せることで危険性を強調し不安を煽る
- D.
- 全く別の意味を持った数値や単位を混同させてリスク判断を誤らせる
- E.
- 明暗が分かれている状況で「暗」ばかりに執拗にスポットを当ててポジティブな情報を伝えない
- F.
- 無根拠なオカルトや少数派のエキセントリックな主張を、根拠の裏付けある定説や多数の民意と等価であるかのように並べて「両論併記」などと正当化する
- G.
- 過去に決着がついている結論を無視したり、終わったはずの議論を蒸し返したりする
- H.
- 全体から見れば特殊な意見を持つ住民をあたかも代表的当事者であるかのように繰り返し使う
- I.
- 一部の不安や主観ばかり過度に強調する一方、それらを払拭する客観的事実は伝えない
少し具体例を挙げよう。共同通信は今年10月17日に『海水からトリチウム検出 - 東電、処理水放出口近く』注5)と報じた。
このタイトルは前述したAのパターンに該当するほか、「具体的な数字に触れようとしない」点でCの要素も含まれる。実際には原発3キロ圏に10カ所ある採取場所のうち、放出口に最も近い場所の海水で、国のトリチウムを含む水の環境放出の規制基準(1リットルあたり60,000ベクレル)どころか世界保健機関(WHO)の飲料水基準(1万ベクレル)さえ大きく下回る16ベクレルの検出であり、残り9カ所は検出下限値未満だった。敢えてこのタイトルを付けて報じた意図は何か。
共同通信は2018年にも、福島県の「県民健康調査」検討委員会が実施した住民調査で、『被曝が将来の子や孫に影響を及ぼすと思うか』の質問に36.1%が「可能性が高い」と答えたと報告されたニュースに対し、『福島36%「子孫に被ばく影響」―県民健康調査』とのタイトルを付けて報じている注6)。これはパターンA、C、D、Iに該当すると言えるだろう。
この記事には当時、「福島で子孫に被曝影響があるかのような誤解を誘発させる」として多くの疑念と批判が寄せられた。実際に、この記事を利用して『福島36%が子孫に被ばく影響ある可能性が高い、と県民健康調査で判明!』というタイトルでのアフィリエイトサイトへ誘導する動きまで見られた。
令和4年度の環境省調査注7)では、結婚差別などに繋がりかねない「福島では次世代に健康影響が出る可能性がある」との誤解が全国平均で40%を超えている。メディアの報道姿勢も偏見差別を助長させる一因となってきたのではないか。
共同通信は9月28日の英文記事でも、「Japan to begin releasing second batch of Fukushima water on Oct. 5」と表記していた。
国や東電、IAEAなどは処理水を英語で表記する場合「Treated water(処理された水)」と記載しているにもかかわらず、敢えて「Treated water」と書かずに「Fukushima water」としたのは何故か。ハフポスト日本版の相本啓太記者が9月29日、共同通信に質問状を送付したところ、10月6日に「国際局」の名前で以下のような回答が得られたという。
- ・
- 主に社内ルールによる見出しの字数制限のため
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- 記事本文には、「treated radioactive water」と表記しており、記事全体では、福島県の住民への差別を助長する内容、表現になっているとは判断していない
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- 共同通信の本記事に対する読者や加盟新聞社からの意見は寄せられていない
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- 他の英字メディアでも『Fukushima water』という表記を使っているところは多数ある
共同通信の主張には全く正当性が無い。たとえば世界保健機関(WHO)注8)は新型コロナウイルスCovid-19の名称について、
病名に地名や民族名を付けないでください。この病気は「武漢肺炎」「中国肺炎」「アジア肺炎」ではありません。疾患の公式名称は、スティグマ(※負の烙印による偏見差別)を避けるために意図的に選択されました。「co」はコロナ、「vi」はウイルス、「d」は疾患を意味します。「19」はこの疾患が 2019年に出現したことに由来します。
としている。
「Fukushima Water」表記もこれらと同様といえる。実際に、福島はすでに苛烈な偏見差別を受け続けてきた。
さらに「字数制限」というが、たとえば『「Japanese」は字数制限のため「JAP」と表記します』が通用するのだろうか。そもそも「Treated」は7文字、「Fukushima」は9文字である。なぜ福島にだけは、このような対応が許されると考えるのか。共同通信には説明する責任があるはずだ。
また、プレジデント・オンラインでは10月20日に大前研一ビジネス・ブレークスルー大学学長が『核分裂生成物そのものであるデブリを通過してきた処理水は、福島第一原発以外にない』と主張したが、フランスのラ・アーグ再処理工場などは使用済み燃料に直接触れた水を処理して放出し、年間のトリチウム放出量は東電福島第一原発(年間22兆ベクレル未満)の約500倍にも及ぶ注9,10)。
さらに『たとえ海洋放出するための規制基準値以下を達成していても、セシウム137などが100%除去されていないのであれば、それを「核汚染水」と呼ぶことは正しい。無論、ALPSで安全なレベルまで処理をしたから「処理水」と呼ぶことも正しい。科学的に見れば呼称はどちらでもいいのだが、汚染水と言った途端にヒステリックに糾弾するのは明らかに政治的な態度であり、それは間違っている』というが、定義もリスクも全く異なるものを敢えて混同させる暴挙を許容し、被災地へのスティグマや偏見差別リスクさえ無視した「どっちもどっち」論は、「科学」「情報災害の防災」「人権」いずれの観点からも中立どころか極めて有害である。まして、実際に放出が開始されて「何の問題も出ていない」結果が出た後の立論ならば尚更だ。
挙句に『中国を含めた科学者を福島に招きなさい』とも言うが、2022年2月に行われたIAEAの査察には中国出身の科学者も含まれていた注11)。
そもそも中国の反対と輸入規制はこれまで台湾産パイナップルや豪州産石炭に行われてきたのと同様の政治問題であり、「科学」や「風評」の問題ではない。世界を見ても、西側諸国を中心に海洋放出の安全性と妥当性を評価する中、中国、北朝鮮、ロシアとそれに親しい勢力のみが反対している。そうした状況で、まるで中国政府の立場を代弁するかのような言説にこそ「明らかに政治的な態度であり、それは間違っている」との言葉をお返ししよう注12)。
社会が「免疫」を獲得する必要がある
実は、こうした「情報災害」「風評加害」の構図は福島や処理水問題に限らず、現代社会のあらゆる場面で普遍的に発生している問題といえる。たとえば2016年の豊洲新市場移転問題も今回のALPS処理水問題と酷似している。この時も一部政党と支持者らが「汚染」を過度に強調し、マスメディアもそれら主張を繰り返し取り上げて大きな社会問題となった。
その結果、豊洲新市場移転は大幅に遅れ、さまざまな悪影響をもたらした。ところが、実際に移転した今や、「汚染」を喧伝した勢力は「何事も無かった」かのように沈黙し、豊洲市場は連日多くの人で賑わっている。
だからこそ、重要なことは「今回の処理水問題を徹底的に検証・総括すること」だ。話題にならなくなったことを以て処理水問題を安易に「終わり」としてはならない。豊洲移転問題では、汚染を喧伝「された側」までもが移転後に何事も無かったかのように沈黙してしまった悪しき前例がある。その結果、風評加害者らの責任も有耶無耶にされ、処理水問題で類似の構図が繰り返されてしまった。「情報災害」「風評加害」の再発防止のため、その構図を広く社会で可視化・共有して、社会がいわば「免疫」を獲得する必要がある。
そのためには情報災害発生の原因を「元はと言えば原発事故が悪い」「政府や東電が言うことは全て信じられない」に類した教条的な責任論や感情論、悲観主義や冷笑主義で思考を放棄せず、『なぜここまで泥沼化してしまったのか』『「汚染」呼ばわりを繰り返してきたのは誰か』『その目的は何か』『どうすれば損害を減らせたのか』を徹底的に問い、突き詰めることが不可欠だ。そもそも処理水の「汚染」を喧伝した勢力は、豊洲で「汚染」を喧伝した勢力と顔ぶれの多くが共通している「常習犯」だ。社会は彼らの逃げ得を許さず、相応の責任を強く求め続けなければならない。さもなければ、同様の「風評加害」「情報災害」は何度でも繰り返されるだろう。(参考:『野放しの「風評加害」、ポピュリズムが招いた犠牲と失費』)
事実、既にその兆候は見られている。福島の中間貯蔵施設に溜められた東京ドーム約11杯分と莫大な量の除染土壌の問題だ。これらは2045年3月までに福島県外で最終処分しなければならないが、その多くは適切な処理と分別を施すことで再利用と減容化が出来る。
これらは被災地復興のために避けて通れない事業であるが、進めるために不可欠な環境省の実証事業は処理水反対運動とほぼ共通する勢力による「汚染土」呼ばわりの煽動に妨害を受け、今年度中に予定されていた実施が延期されてしまった注13)。
この延期を朝日新聞福島総局注14)は
東京都や埼玉県で周辺住民や自治体が反発し、計画が凍結しています。
と報じたが、実際には「凍結」などされていない。さらに、当事者に紛れ込み、その背後で煽動を繰り返す「風評加害者」の存在には触れようとしない。こうした不正確な書き方もまた、誤った情報の既成事実化や世論に影響を与え、問題を解決するコストや負荷を上げてしまいかねない。東電原発事故から12年以上が過ぎた。前述した共同通信の報道姿勢を見ても、メディアの自浄を待ち続けるだけでは更なる被害が防げないことは明らかだろう。
幾度となく繰り返される「情報災害」「風評加害」の影響から社会の人的・物的損失を減らすため、処理水問題から我々社会が学ぶべき教訓、やるべきことは、まだまだあるはずだ。