気候破局説への反発は思想犯罪などではない(2)


Executive Director of Breakthrough Institute/ キヤノングローバル戦略研究所 International Research Fellow

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翻訳:キヤノングローバル戦略研究所 研究主幹 杉山大志 

本稿は、Ted Nordhaus “ Am I the Mass Murderer? Pushing Back On Climate Catastrophism Is Not a Thought Crime
https://thebreakthrough.org/journal/no-16-spring-2022/am-i-the-mass-murderer
を許可を得て翻訳したものである。

前回:気候破局説への反発は思想犯罪などではない(1)

フィクションを事実と言う

 気候問題の核心にあるパラドックスは、顕著に暑くなる気候に適応できないような世界であれば、おそらく脱炭素化もできないだろう、ということだ。対照的に、脱炭素化が出来るような世界であれば、おそらくさらなる顕著な温暖化に対しても十分な耐性を備えている。

 私は、我々はますます後者の世界に生きていると考えている。開発は、これまでと同様に不均一で一貫性がないが、それでも極端な気象に対応する能力を高め続けている。一方で、炭素排出量と消費量の関係は弱まり続けている。

 この2つのダイナミクスは深く結びついている。世界人口の多くが近代的な生活水準を達成するにつれて、炭素集約的な商品やサービスに対する需要は頭打ちになる。後発開発途上国は、より効率的で低炭素な技術を利用できるようになる。そしてエネルギー消費量の増加と近代的なエネルギー・サービスにより、世界の人々は気候変動に対してより強靭になる。

 これらのプロセスの間にある基本的で強固な関係を無視して、気候変動に関するコメンテーターは、世界経済の脱炭素化は単に政治的意志の問題であり、技術的・経済的能力に制約されるものではなく、正当なトレードオフの対象でもないと主張し、「正しい」政治選択をしなければ確実に破局を迎えることになると主張するのが常である。

 この矛盾を維持するために、気候変動に関する環境運動は、明らかにそうではないさまざまな現象について、気候変動が主な原因であると懸命になって誤情報を流すことを余儀なくされている。例えば、国連難民高等弁務官事務所は、何十年も続く内戦から逃れてきた難民でさえも、気候変動による難民と意図的に混同している。気候変動に関連した災害に関するメディア報道は、気候変動起因性(アトリビューション)という新しい分野の主張を確実に取り上げている。これは、個々の自然災害における気候変動の役割についてより強い主張をするために、事実上一夜にして作られた新しい学問分野である。一方で、災害の人的被害が劇的に低下したこと、経済的コストは横ばいであること、ほとんどの災害の頻度と強度はせいぜい小幅にしか増加していないことを示す、強固で長期的な傾向は、完全に無視されている。

 そして、将来の気候変動によって恐ろしい影響が起きるとする悲惨な研究を、頻繁かつ大げさに報道している報道機関の記者や編集者のほとんどが、その根拠となる排出量や温暖化シナリオがほぼありえないものであることを、今や十分知っているはずだ。

 こうなると、気候変動に関する環境運動が表向き「科学を信じる」ことを求めるとしながらも、じつはSFを推進するようになってしまっても不思議はない。大ヒットしたハリウッド映画『ドントルックアップ』は、政治指導者たちが沈黙するなか、科学者たちが小惑星衝突から世界を救おうと英雄的に奮闘するもので、気候変動についてのたとえ話と称している。キム・スタンリー・ロビンソンの2020年のベストセラー小説『The Ministry for the Future』は、2025年にインドで2000万人が死亡する異常熱波で始まるが、評論家や識者からは予言として受け止められている。環境保護主義者のビル・マッキベンは、この作品を “根っからの現実主義 “注6) と呼んだ。

破局主義の終焉

 宇宙生物学者のデビッド・グリンスプーン氏は、「気候の乱れによって、21世紀は20世紀と同じくらい悪い時代になるかもしれない」と書いている。これは一見すると、否定的な発言に見える。しかしその前に、20世紀がいかにひどい時代であったかを思い起こすとよい。戦争、飢饉、疫病、大虐殺で何億人もが死んだ時代だったからだ。核兵器の応酬は、実際に人類の絶滅を招いたかもしれない。気候変動に関する終末論的な警告が鳴り響く中にあっても、核の脅威は今なお消えていない。この歴史と真に折り合いをつけるには、気候変動が、人類がこれまでに直面した最大の脅威であると無頓着に繰り返される主張に対して、破局は他の様々な形で訪れることを認識することである。例えば、1、2週間のうちに2,000万人のインド人が死亡するような大規模な気候変動起因の大災害が起こったとしたら、それはほぼ間違いなく、排出量削減の失敗といった単純な理由ではなく、経済開発と適応が複合的に失敗した結果であろう。

 ロビンソンはその著書の中で、「多くの人にとって、資本主義の終焉よりも世界の終焉を想像する方が簡単だ」という、長年にわたる環境保護活動家の常套句を繰り返している。しかし、気候変動に関する現代の主張の多くに暗黙に含まれている想像力の本当の弱点は、貧困の終焉よりも世界の終焉のほうがはるかに簡単に想像されてしまうということだ。ロビンソンは、多くのインド人の死亡をごく近い将来に起こりうることとして位置づけなければならなかった。なぜなら、多くの人々が、絶望的に貧しく、インフラを欠き、社会的対応を十分に行えない国に住んでいる限り、それは起こりうるもっともらしい話だからである。

 貧困がなくなるとか、進歩が必然であるとかいうことを言いたいのではない。戦争、病気、不平等、経済の停滞、社会の崩壊に、人間社会はずっと悩まされている。将来においても極端な気象が起きて、多くの人々に死や混乱、移住をもたらすことはほぼ間違いないだろう。しかし、将来の極端な気候変動が世界に破局をもたらすという主張を聞くと、「何と比較して?」と問う必要がある。

 気候変動は、それよりももっと直接的かつ重大な要因が他に無い限り、20世紀の大半、ましてやそれ以前の人類の歴史において自然の気候変動が日常的に生み出してきたような規模の死や苦しみ、混乱をもたらすことはないだろうし、また、20世紀初頭の数十年を我々の目標とするべきではないだろう。今日の世界ははるかに豊かで、技術的にも進んでいる。願わくば、将来はもっと豊かで進歩していてほしい。我々はもっとうまくできるし、そうすべきなのである。

 実際、気候に関連する死亡率の大幅な減少は、我々にさらなる死亡率の減少を確信させてくれる。世界では、10億人が依然として深刻な農村貧困の中で暮らしている。さらに数十億人が、近代的な生活水準を達成しようと努力しているところである。世界中の生活水準を向上させるだけで、気候への脆弱性は大幅に軽減されるはずである。予測、通信、建築やインフラの基準、その他多くのことを改善することで、貧富の差に関わらず、一定の温暖化が起きることはほぼ確実であるにしても、社会は気候変動によって受ける影響をさらに緩和できるはずだ。

 同様に、世界的な排出量の横ばいの状態、およびほとんどの先進国での排出量の減少は、多くの気候変動に対する環境活動家が要求する恣意的かつあり得ないレベルまでとは言わないまでも、将来の温暖化を抑制できるレベルであるという確信を与えるものである。現在、ほとんどの予測では、今世紀末までに世界はおよそ3℃の温暖化に向かうとされている。今後30〜40年の間に排出量を削減し、温暖化を抑制するための取り組みが大きく成功すれば、温暖化を2℃近くに抑えることができるかもしれない。2℃と3℃の間には、大惨事か安全か、ましてや生存か絶滅かといったほどの差は無いまでも、将来の世代がどのような世界を受け継ぐかを根本的に左右することにはなるだろう。

 それはたとえば、気候変動運動の終末論的な主張を受け入れる必要はなく、人々が一年のうちより多くの期間、多くの場所で快適に暮らし、働き、屋外でレクリエーションができるような未来に向けて努力する世界。あるいは、完全に選択できるわけではないにせよ、少なくとも危機の真っ只中に急激に居住パターンを変更するようなことが無い世界。またあるいは、私たちが何十万年にもわたって共進化してきた生物多様性と独自の生態系を、より多く維持できるようになっている世界。

 これらはすべて賞賛に値する、実に崇高な目標である。しかし、終末論的で偏向的なレトリックを用いず、そして、反対する者をハーグ国際裁判所の法廷の被告席に座らせると脅すことなく、より良い方法で追求することができると私は思う。気候変動による災害で何千万、何億という犠牲者が出た後の2070年に、ニュルンベルク裁判のような人道に対する罪の裁きが行われることを想像している人たちがいるが、じつはその場面では、エクソンをはじめとする化石燃料企業のCEOだけでなく、グレタ・トゥーンベリや高齢化したZ世代が世界の環境保護活動グループのリーダーとして座っているかもしれない。そして彼らは、原子力エネルギーに関連するコストとリスクについて国民に誤った情報を与えようとした数十年にわたる陰謀や、生活水準を上げるためのみならず、極端な気象に対して頑強になるためにも化石燃料を切実に必要としていた貧しい国々から化石燃料を取り上げたキャンペーンについて責任を問われているかもしれない。

 私が言いたいのは、環境活動家自身が人類に対する犯罪を犯しているかもしれないということではない。未来の世代がそのような視点で気候変動問題を見るかどうかは疑問である。むしろ、地球の気候とそれが人間社会に及ぼす影響の将来を予測することが難しい以上、将来の世代が自分たちの住む世界をどう見るか、ましてや、後から振り返ってどう責任を取るかという問題に答えることは不可能だということを言いたい。

 確かなのは、消費を抑制し、化石燃料を廃止し、経済活動を環境にやさしい技術やエネルギー源だけに限定するという環境活動家の要求をこれまで拒否してきた民主主義社会に、破局論というフレームワークを用いることで、環境活動家が全体主義的な政治プロジェクトを押し付けようとしていることである。多くの人が指摘するように、『The Ministry for the Future(未来省)』の登場人物が二次元的であることは偶然ではないだろう。活動家たちが言うように、気候変動は世界を平坦にし、他のすべての関心事、人類の発展、生態系の関心事、そして未来を見極めるためのより広いコンテクストを消し去ってしまう。

 このような主張には抵抗しなければならない。問題は、人類の滅亡や社会の崩壊、あるいは何十億もの不必要な死といった事態を回避するといった極端なものではない。人々の持つ正統な複数の価値とそのトレードオフの関係を解決してゆくことだ。我々が直面しているのは、気候変動に関する環境活動家の多くが示唆するような、破滅か生存かといった選択ではない。むしろ、少しだけ良い未来と少しだけ悪い未来の間で絶えず増えてゆく選択肢の連続であり、人類の未来は万華鏡のように様々な力によって形作られる。そしてそのほとんどは気候変動とはあまり関係がない。

注6)
https://www.nybooks.com/articles/2020/12/17/kim-stanley-robinson-not-science-fiction/