IEAとシェルシナリオチーム、驚きの因縁


東京大学公共政策大学院 元客員教授

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 ロイヤル・ダッチ・シェルグループ(以下、「シェル」)本社に、シナリオプランニングを行うチームが常在し、1970年ころから現在まで50年間継続していることはよく知られている。
 この原稿には2つの話題が含まれます。
 第一に、シナリオチームのリーダーの15年ぶりの交替をお知らせします。新リーダーはIEAから招来した。第二に、IEAの誕生時に日本と因縁浅からぬシナリオチームのメンバーが大働きしたかも、という秘話である。後者は日本語でかつて現れたことがない注1) 。筆者が1992年に当事者から話しを聞き、記録していた。日本のエネルギー・環境問題の論壇に、すこしの厚みと興趣を加えたいのでこれを書きます。

1.シナリオチームのリーダー、15年ぶりの交替

1.1 シナリオチーム
 現在のシナリオチームはリーダーの下、常時8人前後のメンバーを抱える。エネルギーモデルチームと、社会政治分析チームそしてチーフエコノミストを支えるチームの33つのサブグループに分かれる。リーダーは日本の会社組織で例えれば上級部長。
 リーダーはシェルの上級執行役員の下にある。この役員はたいがい経営執行会議メンバーで、最高経営責任者に協力してグループ全体の経営を行う。

1.2 ラズロ・バッロ
 さて、チームリーダーの交替である。
 近々、新しいチームリーダーにIEAのチーフエコノミスト、ラズロ・バッロLaszlo Varroが着任する。筆者はこのひとと全く面識がないので、以下、各種公開資料を取りまとめる。
 バッロはハンガリー人。2011年にIEAに参加し、2016年にIEAのチーフエコノミストになった。前任はファテ・ビロールである。父親はエンジニア、母親は中学校教師の家庭に育つ。1980年代末のソ連圏のドミノ崩壊のあと、20歳そこそこのバッロはブダペストを飛び出し、ケンブリッジ大学で経済学修士を取得した。ハンガリー政府内でエネルギー/経済畑を歩いた後、2005年3月、ブダペストに本社を置く民間石油企業MOLに移った。そして同社戦略企画部門のヘッドから、2011年、IEAに転出。
 5年前の2016年9月12日付のシェルのホームページに、バッロの長い紹介記事が載った注2) 。2015年年末の「パリ交渉」を振り返った内容で、この人の個人的な経歴をとても好意的に描いているので、シェルとの親密な関係をうかがわせる。記事の中で44歳と紹介されていたので、現在は50歳に近い。
 9月上旬現在、シェルは公式にこの人事異動を発表していない。が、バッロは専門誌のインタビューに答えてシナリオチームへの転職を認め、抱負を以下のように述べる注3)

“By joining Shell I enter a company that embarked on a transformation deeper and more profound than anything in its long history.”
“A lot of hard work and no doubt tough challenges are ahead, but Shell has amazing technical capabilities and even more importantly amazing people whom I’m greatly honored to join. Let the adventure begin.”

1.3 ジェレミー・ベンサム
 バッロの前任者は英国人ジェレミー・ベンサムJeremy Benthamであった。
 ベンサムは英国北部のランカシャーのブラックプールに生まれている。父親が石炭産業で働いた故、エネルギー産業は身近な存在だった。1979年にオクスフォード大学を物理学で卒業した後、80年、シェルグループに入社。主に石油精製・石油化学部門でキャリアを積んだ。
 このリーダーの在任期間は、例外的に長かった。2006年の着任から15年、続けた。リーダーはだいたい2年から4年で異動をする。シナリオチームの創始者のひとりだったピエール・ヴァックが、1970-81年、12年の長期在任だったのだが、ベンサムはたまげた最長不倒距離を記録した。
 理由は会社がベンサムの前任リーダーの人事に失敗したからである。
 2004年にフランス人で大物コンサルタントのアルベール・ブレッサンを招来したのだが、チームが混乱し、機能不全。社内でシナリオチームの評価が著しく下がり、チーム存亡の危機となった。そこでブレッサンの契約終了を待って、シェルビジネス生え抜きのベンサムを起用した。シェルハイドロジェン社社長からの異動だった。

 ベンサムの下で、シェルは社外公開用のグローバルシナリオを次々に発表していった。「エネルギーシナリオ2008」、「ニューレンズシナリオ2013」、「スカイシナリオ2018」、「コロナ禍シナリオ2020」、そして「エネルギー変革シナリオ2021」である。
 注目すべきは、「ニューレンズシナリオ2013」以降の作品は、自覚的に、前作のロジックを継受し、発展させてゆく方法を採用していることである注4)注5) 。これはベンサムの在任が継続したことと関係があるだろう。
 バッロは、新しいリーダーは、われわれの未来世界を新しいフレームワークで捉え始めるだろう。シナリオチーム50年の歴史は、それを示唆している。

 実はシナリオチームのリーダー人事が乱れた時期が、昔にもあった。
 1982年、ピエール・ヴァックが後任としてアメリカ人のコンサルタント、ピーター・シュワルツを連れてきた。ここで戦略企画部門のヘッドは、シェルの内部事情がわからないと不便だろう、と、1973-76年にシナリオチームで働いた生粋のシェルビジネス出身ガイ・ジリングスGuy Jillingsを、シュワルツの共同リーダーにした。これが大失敗。リーダーシップを共同することなど、できなかった。
 ジリングスは、翌年、シナリオチームから転出した。
 以降はこのガイ・ジリングスが主役である。

2.ガイ・ジリングス

 筆者は1991年秋からロンドンのシナリオチームで働いた。当時のシナリオチームは戦略企画部門内に置かれ、この部門を管掌する上級執行役員は最高経営責任者が直轄していた。この部門には当時4人の上級部長職がいた。一人はシナリオチームのリーダー(PL/1)。第2に、全社戦略企画プロセス統括リーダー(PL/2)、第3に、戦略企画分野を含むマネジメント理論の最新動向を把握するリーダー(PL/3)、そしてチーフエコノミスト(CE)。
 92年秋の、ある日。PL/2ガイ・ジリングスの秘書から電話が入り、アポを求めてきた。
 ゆったりと大きな部屋。ジリングスは実に興味ある話をはじめた。

 私は「ドードー」だ。(あ、はい? と筆者)
 壁にドードーの額が掛かっているだろう。ドードーは大航海時代にマダガスカル島で絶滅した、大型の飛べない鳥だ。知ってるか? (はい・・・と筆者)
 この額は、私がドードーの責任を預かっている、という意味である。
 シナリオプランニングは優れた経営戦略検討手法で、シェルは1970年ころからこの手法を使い慣らしてきた。だが手法というものは油断すると、世の中の流れから外れたり、遅れたりするのだ。シナリオチームは、シェルのビジネスの実勢からともすれば無邪気に離れて(irrelevant)ゆく。そうすると社内の信任を失って絶滅の危機に陥るのだ。私はシェル全体の趨勢を観察し、シナリオプランニング手法が実践的な意味を持つよう、気を遣う(watch over) 役割だ。

 またある時、ジリングスが話してくれた。
 「昔、日本に勤務したことがある。シェルグループの日本の子会社だった昭和石油(株)に本社から派遣されて取締役になった。まだ30歳くらいだった・・・」
 「実はあの会社には、あまり長く勤務しなかったのだ。その当時は第一次石油ショック前夜で、自分は大きな働きどころを求めた。自分はおおきなアイディアのなかで働きたかった。だから日本に送られてぽーっとしているのが嫌だった。そこで本社に働きかけて戻してもらった。新しいポストがシナリオチームだった」。

 ジリングスは昭和47年(1972年)11月、昭和石油の取締役に着任したが、昭和48年(1973年)5月に辞任している。在任わずか6か月。シェル本社から、都合によりジリングス取締役、辞任、後任に○○を送る、という突然の通達が来て、昭和石油は取締役会をはじめ様々な会議体を廻さねばならず、はなはだ迷惑だったろう。

3.第一次石油ショックとIEAの起源

3.1 シナリオ ”The Rapids”
 シェルのシナリオプランニングの声望を高めた事績。それは1973年の第一次石油ショックを事前に想定し、それに沿った全社経営計画を実施したことである。本稿はこれを詳述しない。1972年9月にシナリオチームが最高経営会議の場で、シナリオ”The Rapids”が説明された。その中で石油ショックの可能性が示され、シェルの経営陣が真剣になった。そして翌年5月、近未来の石油ショックを前提とした全社経営計画が承認され、直ちに動き出した、という経緯である。

 さて、若きガイ・ジリングスは、入社以来、全社の戦略企画やシナリオプランニング手法におおいなる興味を寄せていたのだ、という。石油ショック到来を前提に動きだした、という緊迫した本社に舞い戻って、ジリングスは自説を社内上層部に説いて廻り、自由に動いてよい、とのお墨付きを得た。それが、IEA設立のアイディアだった。
 この動きはダニエル・ヤーギンの『石油の世紀』日本語版では、以下のようにほのめかされる。

ロイヤル・ダッチ・シェルは(英国)政府指導者たちにマル秘の「ピンク・ブック」を配布して、供給状況は極めて厳しくなっており、「石油争奪戦」が起こりそうだ、と警告した。 
アメリカ企業とは違い、シェルは危機に際して供給を分かち合うための政府間協定を前前から提唱しており、すでにその企画部内でそうしたシステムがどのように機能しうるか、検討し始めていた。

 ここで「ピンク・ブック」とは、石油ショックの蓋然性を説得的に跡付け、その影響-外貨収支の悪化、インフレ昂進、石油配給制の導入など-を、”可能性として”記した社内文書のことである。また「政府指導者たち」とは、日本語版の書く(英国)政府注6) のみならず、オランダ政府も含まれ、両国には「ピンク・ブック」を渡している。米国やその他ヨーロッパ諸国政府には、それぞれの現地操業会社のマネジメントから、簡略版を渡している。

 1973年6月ころロンドンに戻ったジリングス。筆者に語った若き日の思い出話はおおよそ以下だった。
 「わたしは、来るべき石油ショックを回避したり、それに対処するためのグローバルな仕組みがない、と気付いた。私は急いだ。パリのOECDにいた知人をつかまえてシナリオを説明し、ディスカッションを始め、それがどんどん深まってゆき、わたし個人の立場でIEAの基本的役割などを考察したペーパーを提出した。この仕事がOECD内部で注目され、米国国務長官ヘンリー・キッシンジャーがこのアイディアを取り上げた。1973年12月、キッシンジャーはロンドンのホテルで行ったスピーチのなかで、IEAの設立を、公に提唱したのだ」。

3.2  IEAの設立
 キッシンジャーのスピーチは、1973年12月12日、ロンドンのグロブナースクエアにあった名門ホテルThe Europaで行われた注7) 。ジリングスの言うIEAの提案は、演説の中では、米国、西欧諸国それに日本を加えた「Energy Action Group」の提案となっている。

 シェルのオイルショックシナリオ”The Rapids”は、キッシンジャーに影響を与えたのだろうか? 分からない。が、こういう事実がある。スピーチの中に以下の発言を見る。試訳してみる。
 「我々は、今次エネルギー危機の深層原因に思いをいたさねばなるまい。この危機はアラブ・イスラエル戦争が原因、という単純な話ではない。供給側が満足できるような投資インセンティブが用意できないでいるうちに、世界の石油需要が爆発的に伸びた。中東戦争は危機を深刻なものとした。だが、オイルショックはいつ何時にも起こっておかしくなかった。仮に中東戦争の後に石油供給レベルが回復したとしても、需要に合わせて供給力を付けなければならない、という課題は残るのだ注8)

 実は、このくだりは”The Rapids”に含まれていた議論と、ほぼ、同じものだ。ただし、キッシンジャーのスピーチライターが”The Rapids”を参照したかどうか、は分からない。

 その後の経緯はよく知られているところだ。
 米国は石油消費国会議の開催を提唱。1974年2月、13カ国が参加したワシントン会議。そこで、「エネルギー問題解決のためには、国際的協力が不可欠であり、産油国との十分な協議が必要である」という基本認識が得られた。その後検討が進み、最終的に「国際エネルギー計画」(IEP:International Energy Program) が作成される。IEPとは緊急備蓄水準の策定・管理、緊急融通システムの管理と発動を取り決めるIEAの仕事の“キモ”だ。
 1974年11月、OECD理事会決定によりIEPの実施機関としてIEAが設立され、IEP協定も締結された。ここでフランスが離脱したのだが、日本を含め16ヵ国の署名を得、IEAはパリのOECD本部内で、OECDの外局機関という位置づけで活動を始めた。

4.終わりに

 IEA設立の経緯を語ったジリングスの思い出は、文献資料では十分裏付けられない。ジリングスの個人ペーパーの内容は不明で、これをOECDスタッフに提出した時期が、1973年10月6日に勃発した第4次中東戦争の前なのか、後なのか、ここも定かではない。
 筆者がシナリオチームのベテランたちに聞くと、そんなこともあったろう、あるいは、彼はそのように動いていた、と言う。筆者は、当時30代前半だった野心家のガイ・ジリングスは、シェルを代表してOECDに働きかけていたのではなく、戦略企画部門を管掌する上級執行役員ジミー・ダヴィッドソンに話を通したうえで、単独行をやったろう、と推測する。

 ジリングスは1982年シナリオチームのリーダーに就いたが、既述の通りピーター・シュワルツとの競争に負け、転出した。シュワルツが85年に契約を終え、ジリングスはいつの頃か戦略企画部門の全社戦略企画プロセス統括リーダー(PL/2)として戻ってきた。そしてジリングスは「ドードー」役を、誰からか、引き継いだのだ。

 ドードーとは、シェルの社内政治に気を配り、シナリオチームがビジネスの実勢から疎くなるのをけん制する役目なのだろう。故にドードーはシェルでビジネスキャリアを育ててきた英人やオランダ人に引き継がれる。
 2006年からシナリオチームのリーダーを15年続けた英国人ジェレミー・ベンサムは、ドードーにふさわしかった。気候変動問題の荒波を乗り切るために、広報部門・渉外部門との緊密な連携を構築しながら、シナリオチームの居場所を守り続けた。
 そして2021年、秋。シェルは、IEAのチーフエコノミスト ラズロ・バッロをシナリオチームリーダーに迎える。
 シェルのグローバルシナリオは世界大の社会システム全体を扱うものだ。未来世界の政治・社会・経済・国際関係やビジネス、技術進歩やエネルギー/気候変動問題等のありようを、いくつか複数の姿に描き分ける。
 ベンサムの時代。エネルギー/気候変動シナリオは社会全体シナリオの従属変数として、社会全体シナリオの中に包摂して叙述された。新任のバッロも、社会システム全体の未来を複数の姿で描き、そしてエネルギー変革の長期未来を、シェルビジネスの現状と将来展望を踏まえながらも、勇敢に探索してゆくのだろうか。IEAのポストよりも守備範囲が拡がることだろう。
 引退してゆくベンサムは、誰にドードーを託すのだろうか。

注1)
Angela Wilkinson &Roland Kupers, The Essence of Scenarios, 2014 及び、Franz Mauelshagen, The Age of Uncertainty : Future Scenarios and Global Threats after World War Ⅱ,2017 が、本稿の話を一部伝える。(2021年9月14日現在)
注2)
シェルHP https://www.shell.com/inside-energy/iea-chief-economist-let-keep-momentum-after-paris-climate-deal.html
注3)
”Shell hires IEA chief economist Varro as head of ‘Scenarios’ team”, Upstream 11 June 2021 https://www.upstreamonline.com/energy-transition/shell-hires-iea-chief-economist-varro-as-head-of-scenarios-team/2-1-1023840
注4)
角和昌浩,「エネルギー変革シナリオ2021」,石油・天然ガスレビュー, 2021 https://oilgas-info.jogmec.go.jp/review_reports/1008941/1009043.html
注5)
木原正樹・角和昌浩「シェルのエネルギー変革シナリオ」, エレクトロヒート, 2021 No.240(近刊)
注6)
この箇所の邦訳は誤訳です。原文はgovernments。
注7)
原文はOffice of the Historian set up by the U.S. Department of State: https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1969-76v38p1/d24.
注8)
原文を記しておく
(we)must bear in mind the deeper causes of the energy crisis: It is not simply a product of the Arab-Israeli war; it is the inevitable consequence of the explosive growth of worldwide demand outrunning the incentives for supply. The Middle East war made a chronic crisis acute, but a crisis was coming in any event. Even when prewar production levels are resumed, the problem of matching the level of oil that the world produces to the level which it consumes will remain.