汽水の匂いに包まれて(その4)
分析科学者 松永勝彦先生との出会い
畠山 重篤
NPO法人 森は海の恋人 理事長
森林が海の生物生産と関わっているということは、経験的には感じていました。
魚付き保安林という名で海辺の森林が昔から守られているのも、それを伐ると魚が寄り付かなくなるという先人の経験があるからでしょう。しかし、水産学者から、そのことの科学的な根拠を教えてもらうとこはありませんでした。
平成元年(1989年)のことです。気仙沼湾に注ぐ大川上流域で、林業を営むK君から、「急いで今放映しているNHK番組を見てください」と電話が入りました。番組では、北海道大学水産学部教授の松永勝彦先生が、森と海との関わりについて説明していました。
待ちに待った研究者との出会いでした。森と川、そして海との関わりを研究している学者を探していたのですが、全く見当たらなかったのです。
松永教授へ電話を入れると、「明日の10時ならお会いできる」と、約束してくれました。その晩、寝台車で函館に向かいました。
研究室は北大水産学部海洋科学講座という部屋でした。専門は海水中に含まれる微量金属と生物との関わりの研究です。早速、講義が始まりました。
海の食物連鎖は、植物プランクトンの発生から始まります。肥料分として窒素、リン、ケイ素が必要です。この他にミネラルと呼ばれる鉱物質の養分が必要です。その中でも鉄分が海では不足しているのです。
プランクトンと鉄分の話を聞くのは初めてでした。「もう少し詳しく説明していただけないでしょうか?」とお願いしてみました。
鉄は葉緑素(クロロフィル)の生成と密接な関係にあります。簡単に言えば、鉄がなければ、クロロフィルは生まれないのです。
クロロフィルは光合成をおこなっていますから植物の命です。分かりやすい例は盆栽の松です。松の緑が冴えなくなり、植木屋さんに相談すると、盆栽の土に釘を刺すように言われます。釘は鉄です。しばらくすると緑が蘇ります。その他、窒素の吸収にも、鉄が関係してきます。窒素は海水では主に硝酸塩という型で存在します。植物が吸収しようとするとき、これを還元しなければなりません。還元作用の実働部隊は還元酵素ですが、この酵素の働きに、鉄が大きく関わるのです。
このように植物の成長には、鉄が大きく関わっているのです。
幸いなことに、私は気仙沼水産高校製造課出身で化学の基礎を学んでいました。松永先生の説明を理解できたのです。
鉄は酵素と出会うと酸化して粒子になり海底に沈降してしまいます。ですから、海は鉄不足になるのです。ちなみに、外海での鉄濃度は海水1リットル中に1ナノグラム(ナノは10億分の1)しかありません。
「HNLC海域」
かなり昔から、海洋生物学者にとってミッシングなことがありました。
窒素やリン等の養分が十分含まれているのにプランクトンが増えない広大な海域が存在することです。
HNLC(ハイニュートリエント、ロークロロフィル)海域です。南極海はその典型です。
そのメカニズムを発見したのは、アメリカの分析科学者(ジョン・マーティン)です。
鉄はあらゆるところに存在しますので、分析が困難なのです。
鉄が含まれていない、プラスチック製の分析器具を発明し、マーティンはそのメカニズムを解明したのです。
南極海の海水を採取してきて、プラスチックの容器に入れ、一方はそのまま、一方は僅かな鉄を入れ、陽に当てておいたのです。
鉄を入れた方はプランクトンが大繁殖、入れない方はそのままです。
この研究は科学雑誌のネイチャーの表紙を飾った大発見でした。
沿岸域に目を移しましょう。背景に豊かな森林を有する川が注ぐ汽水域はプランクトンが豊富です。どのような鉄が供給されているのでしょう。
森林の腐葉土の中にフルボ酸というキレート物質があり、鉄と結びついてフルボ酸鉄となります。
この鉄は、酸化されることなく、且つ水に浮かぶので川から海に供給されるのです。
全国の牡蠣の漁場が汽水域に形成されているのはそのようなメカニズムからくるものなのです。川の流域の森林は全て魚付き保安林と見なすべきです。
松永先生は「漁師さんが落葉広葉樹の植林活動をしているのは、理にかなっていますね。森は海の恋人って、良いフレーズですね」と、評価いただいたのでした。