シナリオプランニングの手法から~コロナ禍を考える(4)
データ化・カード化が、発想を跳ばす
角和 昌浩
東京大学公共政策大学院 元客員教授
現状分析はシナリオプランニングの入り口、聞く者を未来への探索にいざなう。見通しの不確かさを予感させるよう、データを揃えて語らねばならぬ。未来は決して正確には予測できん、一方向には進まんだろう、と感得していただく。健全な感性と、健全な批判的思考力が呼び起こすのだ(シリーズ1 第2回を参照ください)。
さて、前回、論説文の整理方法を説明した。論述を構成するいくつかの情報を、分割して、カードにして書きつけ、矢印で連関を示し、ストーリーを再構成してゆく。こんな技法でした。論説の書き手は書き手なりに、首尾一貫した論述を工夫される。が、シナリオ技法は、元の論述を分解して、カードにしてしまう。申し訳ない気もするが、仕事だから仕方がない。
さて、カード化の目的は2つあります。第一に論述の質の良し悪しを、ロジックの良し悪し、という基準で捌き、使用に耐える現状分析用のデータを拾ってゆく。第二に実は、カードデータに加工されると、別々の論説文が「出会える」 はい、カードとカードが画面上で、出会うんです! ここで、シナリオチームの知性が動き出す。イノベーションとは、出会い、です。ここの作業はチーム全体の直観力と分析力が刺激されて、時間を忘れるディスカッション、胸躍ります。
この愉快痛快を誌上で再現するのはむつかしいが、前回投稿に現われたカード図を使って、どんな体験なのか、お見せしたい。
まず大きな画面を用意して、現状分析用データカードを貼りつけ、一覧する。この誌面では、”Science”誌掲載論文、IMF世界経済見通し、それに日本のエネルギー・温暖化論壇の見解、の3つの論説から、カードデータを採取しましょう。シナリオプランナーが使いたいカードは;
”Science”誌からは、「新型コロナの将来の趨勢予測」のロジック。IMFからは、「ショックの期間や深刻さに不確実性が高い」、「「大封鎖」のため需要喚起策が打ちにくい」という2つの現状分析。そして、日本のエネルギー・温暖化の論壇からは、「コロナ禍をきっかけにして、既にあるデジタル技術が経済社会に大普及する」、「これが新たな市場・需要を生む」という論点。このあたりを拾った。そして、並べてみた。
次に、この画面の中で何が起こっているのか、よく観察してみよう。
「ショックの期間や深刻さに不確実性が高い」 このカードが、不確実性を論じたいシナリオプランナーにアピールしてくるのだ。Science誌の「2022年までソーシャルディスタンシング」カードは、過去のパンデミックの趨勢と今後のCOVID-19の趨勢の間に、相関関係を仮定して導かれている。ということは、経済への打撃規模、あるいは政府の抱える赤字財政の規模は、コロナ禍の深さや期間に依存するのだろう。
ダメージが大きければ政府の借金は増える。我が国の借金は何に使われようとしているのか? ここ半年、主として医療提供体制等の強化、および利子補給、給付金、助成金による事業者や家計に対する生活保障に充当されている。これらが喫緊の課題だった。
次に、「経済のデジタル化の加速」に注目しよう。一般的な議論をする。デジタル化投資は誰がする? コロナ禍の下で成長を維持している企業だ。彼らは生産性を向上させるだろう。が、生き残るべく苦闘する企業には投資の余力がない。小規模サービス業、モールや商店街、飲食・繁華街の賑わい、旅行・観光・旅館、ライブイベント、スポーツジム、塾・習い事・・・ 社会になくてならない。が、ここを性急にデジタル化すれば、雇用が失われ、賃金が伸び悩むだろう。サービス業のデジタル化は、短期的に雇用を痛めるかもしれないのだ。では、公的セクターのデジタル化は? 政府の財政はすでに赤字で、赤字が急激に積みあがりつつあるし、なによりデジタル化投資と国民の喫緊の生活保障対策とでは、優先度が違う。かくしてデジタル化は公的セクターでも民間セクターでも“まだら”に起こるだろう。
この“デジタル格差”は、近未来、どんな社会を生みだすのか?
以上シナリオ手法で活用する、カードを使った、直観力と分析力のデモンストレーションでした。
複数の論説をカードデータに加工してバラバラにして、それから再構成して、ここで発想が飛躍できる。シナリオ手法で作る現状分析モデルは、このように、見え隠れするイシューを明示的に書き込んで、聞く者をしてこの先の工程、すなわち未来への探索にいざなう。
今回のシナリオ手法解説はここまで。
以下では個人的な感慨を述べ、次回投稿に向かって精神を整えたい。
筆者は3月、個人用メモに、こう書きつけた。
「われわれは、人の世の行く末を信じられるか? 人の世の行く末が、信じられるのか?」
その時、横浜港のクルーズ船のテレビ映像が流れた。そして武漢、イタリア北部の都市、フランス、英国、ニューヨークの映像が流れていた。集中治療室。急速な容態の悪化。自撮りして体調変化を言葉に置き換える勇敢な患者。病院のスタッフは、青い、薄い防護服を着て、皆、疲弊していた。病院の廊下や入り口で、自宅で・・・横たわる病人。英国BBC放送や米国ABC放送で、こころがはげしく揺れた。肉親や友人、同僚の死に悲嘆し、悼む人々を見ていた。欧米社会はこころに深い傷を負った。この傷は恢復していない。近しい友人たちとのメール交信で、それが伝わってきた。
5月頃から、同じことが途上国でも。ブラジル、南アフリカ、インド、メキシコ・・・感染のリスクにさらされて集住する貧しいひとたち。都市のはずれの荒地に、ユンボで土をあげた墓が並ぶ。集まった何人かが見送り、弔う。ドローンが高いところから見下ろしていた。悼む心、弔う心。大量死である。米国で14万人、英国で4.5万人、イタリアで3.5万人、フランス、スペインで3万人ずつ。ブラジルで7.8万人。インドで2.5万人。(7月20日現在)
日本では4月7日、7都府県に緊急事態宣言。ここで日本のマスコミ報道は、り患者を数え、死者を数え、PCR検査体制の不備を見つけ出し、国内各所に発生したクラスターを追いかけた。海外で同時進行中の過酷な現実に目が届かなくなった、と感じた。
思い起こせば9年前の2011年、日本は3.11の悲劇を経験したではないか。あの時、景観が変わっていた。2万人の死者が出た。我々は映像を、繰り返し、見た。亡くなった方々を忘れることはない。コロナ禍も同じである。世界の大量死のただ中で、悼まねばならない。人間の尊厳の問題である。
誠実に悼む、とはどういう振舞いなのか。きちんと記憶しておく、ということだろう。筆者は、『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(2006年、藤原書店)という本に出会った。文化勲章をとられた歴史学者速水融氏(2019年、没)の仕事です。この本で、1918年/19年に世界中を襲い日本国内でも45万人の命を奪ったパンデミックが、100年前の日本でどう報道されたか、を学んだ。速水氏は、あとがき、でこう言っている。
「・・・現在のウィルス学の発達は日進月歩であり、医学者はスペイン・インフルエンザを振り返って時間を割く暇もないほどである。歴史の出来事を叙述する筆者の願いは、とにかくスペイン・インフルエンザと、それに曝された人々の悲鳴を聞き、状況を知ってほしい、という一言に尽きる。当時の人々は、そのような事態に直面して、どう対応したのか、政府な何らかの手を打ったのか、そして、なぜ忘れ去られたのか、これらのことをじっくり噛みしめていただきたい・・・」
コロナ後の未来を話したい。エネルギー企業の将来の事業環境を語りたい。気持ちはわかるが、世界大の災禍となったコロナ禍に臨む今現在の日本社会と我々が、どう考え、感じて、どう振る舞っておるか、記憶しておくべきだ。去る7月1日のエネルギー調査会基本政策分科会では、コロナ禍から議論を始めた委員も数多かった。コロナ禍への評価が、将来のエネルギー政策議論を始める前提に置かれる可能性もあろう。
コロナ後の未来は、現在のある部分と、接続しているのだ。
そして、我々は、人の世の行く末を、信じなければならぬ。