原子力規制のあり方を考える


国際環境経済研究所理事・主席研究員

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(産経新聞「正論」からの転載:2019年7月15日付)

 規制の目的が社会的厚生の向上にあることは、大きな意見の相違はないだろう。しかし実際に、社会的厚生の向上に資するように規制を行うことは容易ではない。

問われる規制機関の説明責任

 例えば、効果や副作用の検証が十分でない医薬品を認可すれば、薬害を引き起こす恐れがあるし、かといって検証を長期間続け認可を出さなければせっかくの新薬が救えたはずの患者が救われなくなる。規制によって何を守るのか、規制による時間的・経済的コスト負担を社会はどこまで許容できるのかを考え、自分たちが何を目的にどのような規制活動を行うかを明確に説明する責任を、規制機関は負っている。

 米国の行動経済学者で、オバマ政権において規制改革に取り組んだキャス・サンスティーン氏がその著書で「規制の費用対効果分析と民主主義政府は補完的関係にある」と説く通り、規制のあり方について説明責任を果たすことは、民主主義政府の最も重要な義務の一つといえるだろう。

 福島第1原子力発電所事故をきっかけに日本の原子力規制は根底から見直された。原子力の安全確保において「これで十分」と慢心することは許されないが、各発電所の安全性が相当高まっていることは確かである。だが規制機関の説明責任が果たされているとは、筆者にはまったく思えないのだ。

 例えば、本年4月24日、原子力規制委員会がテロ対策施設の完成が間に合わない原子力発電所については、運転を認めない方針を明らかにした。そもそもテロ対策施設については、平成25(2013)年7月に施行された新たな規制基準によって、昨年7月までに完成させるよう定められたところ、安全審査が長期化している実態等も踏まえて、原子力発電所本体の工事計画認可を得た日を起点とし、そこから5年以内という猶予が設けられたものだ。

 規制委員会の更田豊志委員長は記者会見で、1週間前に行われた各社の原子力部門責任者からのヒアリングにおいて、工期に間に合わない恐れがあるという報告が事業者から突然なされたとして、強い不快感と不信感をあらわにし、テロ対策施設の設置が期限までに間に合わない場合には、稼働停止させることの正当性を強調した。

事業者と規制双方に欠く意識

 稼働を認めていた炉を停止させるという判断の根拠を問う記者に対し「期限を迎えたからと言って有意にリスクが上がるわけではない」としながらも、決め事として定めた期限を守らせることの意義を主張した。心情的には理解できる。事業者が、設置工事が遅れていることに問題意識を持たず、規制機関に何ら報告も相談もしていなかったとすれば、この反応も当然だろう。規制のクリアは大前提でいかに事業者が自主的取り組みを発展させるかが重要なのに、決め事すら守れなかったことに多くの国民が失望している。

 しかし規制機関に委任されている職務は、事業者の根性を叩きなおすことや教育的指導をすることではない。リスクが有意に上がらないのであれば、原子力施設の停止によって国民が負うコストはどう正当化されるのだろうか。

 原子力規制庁がテロ対策施設の設置に関する規則の解釈を示した資料によれば、テロ対策施設は「以下に掲げる設備又はこれらと同等以上の効果を有する設備」とある。規制が求める安全性を確保できるのであれば、代替的な施設・手段も許容することが明記されているが、代替策による対応は十分に検討されたのだろうか。

 更田委員長は、各社の原子力部門責任者が具体的な代替策を用意してこなかったことを無策として批判していたが、代替策による対応は、事業者と規制機関が綿密にコミュニケーションを取りながら、検討していくべきものだ。事業者だけにその検討をさせるべきものとも思えない。

独善に陥らぬよう国民の目を

 また、代替案は実際には難しいとして「停止させることも代替案の一つ」としているが、それは詭弁に過ぎるだろう。そもそもこれまで事業者は規制機関に対して工期の遅れの可能性を全く伝えてこなかったのだろうか。

 事業者としてはいつ「公式に」伝えるか悩むことはあっても、全く伝えなかったとは想定しづらい。現場を訪問すれば必ず工期の進捗が話題になるはずで、規制委員会も事務局である規制庁も遅れは認識していたはずだ。事業者の萎縮も問題だが、迅速かつ効率的な審査を責務とする規制機関も、早めの検討を促すべきではなかったか。規制機関と事業者、規制機関内部の深刻なコミュニケーション不足がうかがわれる。

 説明責任を疎かにする規制機関は、容易に独善に陥る恐れがある。高い独立性を与えられたからこそ自制的・自省的であることが求められるし、国民と国民の代表である国会が規制機関をしっかりと監督することが必要だ。リスク管理を規制機関任せにしては、民主主義社会に生きる責任を放棄したといわれても仕方ないだろう。