福島第一原発訪問記(1)

福島第一原発事故の概要を整理する


国際環境経済研究所理事・主席研究員

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 東日本大震災をきっかけとする福島第一原子力発電所の事故から6年が経過した。6年目の3月11日や年度末の避難指示解除など、福島に関する報道の量がここのところこれまでより多くなっていたように思う。しかし論調はこれまでと変わらない。
 「6年も経つが」、「避難指示解除はされるが」、「最新鋭のロボットが炉内に入ったが」。
 「が」の後には、「進捗が無い」、「問題が解決していない」、「先が見えない」という否定的・悲観的な文章が続く。
 実際のところ福島は、そして、福島第一原発はいまどのような状況なのであろうか。弊研究所有志にて、3月21日に訪問する機会を得たので、ここに今回の視察で見た「福島第一の今」を報告させていただきたいと思う。 

2011.3.11―あの日福島で何が起きたか

 そもそも福島第一原発の事故とはどのようなものであったのか、ご存知でない方も多いかもしれない。複数号機で同時進行したため、全体像の把握が難しいことも影響しているだろう。詳細は、今年1月上梓した拙著「原発は“安全”か たった一人の福島事故報告書」(小学館)注1) を参照していただければと思うが、あの日、福島第一原発で何が起こったのか、概略をご説明した上で、福島第一の訪問記に筆を進めていきたい。

 福島第一原子力発電所には、1号機から6号機まで6つの原子炉があり、すべて1970年代に運転を開始している。個々の機器や配管は定期的に取り替えられるため、細胞が入れ替わる人体に例えられることもあるが、原子炉そのものは稼働から40年近くが経過していた。原子力は最新の科学技術と考えられがちであるが、莫大な初期投資を超長期の時間軸で回収していく事業なのである。福島第一原子力発電所は6基合計で約469.6万kWの規模を誇り、東京電力の3つある原子力発電所の中でも大きな存在感を持っていた。

図1
 福島第一原子力発電所構内図 
(仮設モニタリングポストやモニタリングカーは震災後に設置されたもの)

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 立地場所は福島県双葉郡の大熊町と双葉町である。2つの自治体にまたがって発電所が建設された背景には、各自治体の税収への配慮などの事情があり、福島第一の1~4号機は大熊町に、5,6号機は双葉町に位置している。
 震災当日、1~3号機は通常運転中、4~6号機は定期点検により停止中であった。運転中の3基のプラント(1、2、3号機)で、原子炉の停止(原子炉の中の燃料の核分裂の停止)は滞りなく行われたと分析されている。原子力発電が「停止」するには、まず、圧力容器にある燃料集合体の間に制御棒を挿入して、燃料の核分裂反応を止める。この制御棒挿入による停止は、福島第一だけでなく大きな揺れに襲われた運転中の全ての原子力発電所注2) で成功したことが確認されている。しかし燃料棒が「崩壊熱」と呼ばれる熱を発するため注3) 、原子炉を「冷温停止」と言われる完全なる停止状態にするには、高温の核燃料を大量の水で一定程度の時間冷却し続けなければならない。そのためにはその水を運ぶためのポンプを動かす動力が必要となる。
 ポンプを動かす主たる動力は電気である。発電所が稼働していれば当然そこで発電した電気で稼働するが、発電所が停止した際の電源として、他の発電所からの電気を送電線を通じて受電する設備、バックアップとしてディーゼル発電機(この2つはどちらも交流電源という)、さらにはバッテリーによる電源(直流電源)が対策として用意されていた。しかしこれらのほとんどを失ったことによって燃料の冷却ができない状態になってしまったのである。
 電源を喪失しポンプによる冷却ができなくなったため、消防車を使って注水するなど、代替手段を講じることが試みられた。しかし、津波の影響は敷地内のあらゆる場所、多様な施設に影響をもたらしており、結果として冷却が間に合わず、1号機に続いて3号機、2号機も燃料が溶融する事態に至った。
 燃料が溶融し、この過程で、燃料ペレットを覆っている被覆管の材料である「ジルカロイ」と水蒸気が1000℃以上の高温の状態で接触したことにより大量の水素が発生した。この水素が格納容器から原子炉建屋にもれ出て、1号機、3号機、4号機の原子炉建屋で水素爆発が発生した。4号機の場合は、燃料はすべて使用済み燃料プールに取り出されていたので、同号機の燃料が溶融したわけではなく、3号機で発生した水素が、共用の排気ラインを通って4号機に流入したものと推定されている。なお、2号機で水素爆発が起こらなかったのは、1号機の水素爆発の影響で、2号機の原子炉建屋のブローアウトパネル(原子炉建屋内の圧力が上昇したときに空気を逃すパネル)が開き、水素がそこから建屋外に放出されたためと考えられる。福島第一で起きた爆発を、核爆発と混同されている方も時々おられるが、水素爆発であることは明らかになっている。
 余震や津波の恐れ注4) 、照明や通信機器なども限られる作業環境のなか、現場がどのように戦い、しかし何ができなかったかをここで書きつくすことはできない。
 結果として、大量の放射性物質が発電所周辺に放出された。放射性物質の放出量はいくつかの機関が推定しているが、1986年のチェルノブイリ事故の10~20%程度の規模注5) とされている(I-131がおよそ10%、Cs-137がおよそ20%)。このうちかなりの部分は海上に拡散したとされているが一部は陸上に拡散し、特に発電所北西方向に多く拡散沈着した。国等により除染が進められているが、事故後6年が経過した時点でも福島県では7万人を超える人々が避難を継続している(平成23年 東北地方太平洋沖地震による被害状況速報(福島県) 注6) )。「震災関連死」は福島県が他県を圧倒して多くなっている。(東日本大震災における震災関連死の死傷者数2,086名(都道府県・年齢別)(平成28年9月30日)(復興庁)注7)

 こうした「数」では語り尽くせない被害を、福島原子力発電所事故はもたらした。今後のエネルギー政策、ひいては日本のあり方をどう考えるにせよ、福島に来てあの時何が起きたか、いま福島がどうなっているかを実際に見て学ぶ必要がある。「1000年に一度」と言われた震災を経験した世代の使命として、最もやってはならないことは、この事故に学ぶことなく風化させていくことだろう。


図2

写真提供:東京電力ホールディングス株式会社

注1)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8E%9F%E7%99%BA%E3%81%AF%E5%AE%89%E5%85%A8-%E3%81%8B-%E3%81%9F%E3%81%A3%E3%81%9F%E4%B8%80%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E6%95%85%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8-%E7%AB%B9%E5%86%85%E7%B4%94%E5%AD%90-ebook/dp/B01NAZ234P/ref=dp_kinw_strp_1
注2)
東日本大震災による地震に見舞われた太平洋岸には、5つの原子力発電所がある(東通、女川、福島第一、福島第二、東海第二)
注3)
崩壊熱の大きさは運転状況にもよるが、一定の目安として、制御棒挿入直後で原子炉運転時点の7%程度、1時間後には2%、1日後に0.5%、1年後に0.2%程度とされる。(「考証 福島原子力事故 炉心溶融・水素爆発はどう起こったか」 石川廸夫 2014年4月 一般社団法人日本電気協会新聞部 P.30)
注4)
3月13日の朝までに、発電所近傍で震度4以上の余震が20回発生した。また大津波警報は12日20時20分、津波警報は13日7時30分まで継続し、注意報が解除されたのは13日17時58分であった。
注5)
IAEA The Fukushima Daiichi Accident Technical Volume 4/5 Radiological Consequences
UNSCEARの報告→ UNSCEAR 2013年報告書 2011年東日本大震災後の原子力事故による放射線被ばくのレベルと影響(日本版79ページ)
注6)
https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/shinsai-higaijokyo.html
注7)
http://www.reconstruction.go.jp/topics/main-cat2/sub-cat2-6/20160930_kanrenshi.pdf

次回:「福島第一原発訪問記(2)」へ続く