失った山の民の暮らしと歴史
書評:根深 誠 著『白神山地マタギ伝: 鈴木忠勝の生涯』
杉山 大志
キヤノングローバル戦略研究所 研究主幹
(電気新聞からの転載:2018年10月5日付)
白神山地に行ってきた。津軽藩の城下町弘前市からのアクセスは良く、40分の快適なドライブで入り口にあたる西目屋町に着いた。ここに立派なビジターセンターがあり、そこからさらに40分で暗門の滝の入り口に着く。あいにく大雨で、滝への遊歩道にも入れなかったが、静寂なブナ林を散策することができて心が洗われた。
白神山地には、縄文時代から変わらぬ、冷温帯気候の自然景観を留めた生態的な豊かさがある。
ブナ林を貫く渓流をイワナ、ヤマメ、アユなどが海から遡上する。クマ、カモシカ、サルなどの哺乳類から、イヌワシ、クマタカなどの猛禽類なども棲んでいる。
表題の本は、白神山地の「最後のマタギ」と呼ばれた鈴木忠勝氏(1990年没)について書いたもの。外部の人には殆ど聞き取れず意味が分からないマタギの言葉、女人禁制などのマタギの戒律など、子供の頃からこの付近に住み、長年親交を結んできた筆者にしか書けない、貴重な記録だ。
白神山地は25年前に世界自然遺産に登録され、入山は禁止ないし規制されるようになり、宿泊施設などはその外の人造湖や西目屋町などに建てられることになった。悪天候にもかかわらず西目屋町が観光バスで賑わっていたのは、世界遺産ブランドの威力だろう。
ここは、日本にありがちな、どこにでも売店やレジャー施設が並ぶ公園とは異なる。ビジターセンターは豊かな自然について丁寧に説明するものだった。日本には数少なくなった、手つかずに近い自然を保全すること、そして学習・研究に力点を置いた生真面目な自然公園づくりを感じた。
だが実は、大事なことが忘れられている、と著者は訴える。現在立入が禁止されている地域には実はマタギを初め多くの人々が入り、山と共に生きていた長い歴史があった。ブナの木にはナタで刻んだナタメと呼ばれる碑文が無数に残る。家族の名前を刻んだ祈祷であったり、獲物がどこにあるといった標識であったりした。
筆者はそれを読むと、昔の人の暮らしが彷彿として感慨深いという。だが入山の禁止・規制の後、これは落書きとして、たき火やイワナ釣りなどとともに禁止されている。しかしこれでは、じつは人々とのつながりという、白神山地のもっとも大事な部分が失われてしまっている、という。
大雨のブナ林で、筆者の言葉を思い出して、そこを歩いた人々に思いを馳せた。
※ 一般社団法人日本電気協会に無断で転載することを禁ず
白神山地マタギ伝 鈴木忠勝の生涯
著:根深 誠(出版社:山と渓谷社)
ISBN-10: 4635048500
ISBN-13: 978-4635048507