日本文明とエネルギー(7)
家康の江戸帰還の謎(その1) ―不毛の地・江戸へー
竹村 公太郎
認定NPO法人 日本水フォーラム 代表理事
戦国勝利のシンボル京都
1600年、徳川家康は関ケ原の戦いで西軍に勝った。家康は朝廷から征夷大将軍の称号を得るため、京都の二条城に入った。1603年、家康は征夷大将軍の称号を受けると、即座に江戸に帰ってしまった。この江戸帰還が江戸幕府の開府となった。
江戸時代の3大不思議を上げるなら、この「家康の江戸帰還」は必ず入る。
なぜ、家康はあの田舎の江戸に帰ったのか?
150年続いた戦国の幕を下ろすには、この家康の江戸帰還はあまりにも不自然だった。
戦国時代を勝利し天下人となるには、朝廷を抱えることが要件だった。朝廷が権力を握っていたということではない。混乱の世の中を鎮静化し、天下を治める象徴が京都の朝廷であった。
歴代の足利幕府、武田信玄、今川義元、織田信長そして豊臣秀吉を見ればわかる。彼らの目は常に朝廷に向かっていた。朝廷を抱えこみ、それを天下に示すことが、天下人になったことの宣言であった。そのためには、天下人は京都または京都周辺にいなければならない。
ところが、家康は違った。京都に背を向けてしまった。
度し難い不毛の土地、江戸
全国の戦国大名たちはあっけにとられたに違いない。まだ、大坂城には秀吉の嫡男、豊臣秀頼が構えていた。西には戦国制覇を狙う毛利も島津も黒田官衛兵もいた。それなのに、家康は江戸に行ってしまった。全国制覇の天下人になることなどに興味がないかのように、家康は箱根の東に消えてしまった。
箱根の東にある江戸は、単なる田舎ではなかった。度し難い不毛の土地であった。不毛の土地というだけではない、日本列島の交流軸から外れ、孤立し、情報が届かない、発展性のない土地であった。
家康がこの不毛の江戸に初めて入ったのは、さかのぼること13年前の1590年であった。
1590年、豊臣秀吉は北条氏を降伏させ、ついに天下人となった。その年、秀吉は家康に戦功報償として関東を与える、という名目で家康を江戸城に移封した。
この移封は左遷と言われているが、正確に言えば江戸幽閉であった。
江戸城は日本列島の東西の往来から孤立した、不毛の土地にポツンと建っていた。
関東の劣悪な地形
江戸城はだだっ広い武蔵野台地の東端にあった。
この武蔵野台地は役立たずの台地であった。何しろ大きな河川がなく、米を作るための水がなかった。その武蔵野台地の西側には、箱根、富士山と続く険しい山脈が壁のように連なり、文明の中心の西日本との自由な往来を妨げていた。
江戸城の東には、水平線が見えないほど広大な湿地帯が広がっていた。
縄文時代、海面が5m高かったころ、関東地方は海の下であった。家康が江戸に入った時期には、海面は下がり海は後退していた。かつて海であったその跡地には、利根川、渡良瀬川そして荒川が流れ込み、その河川によって運ばれた土砂が、巨大な干潟湿地を形成していた。
少しでも雨が降れば、この湿地帯の水は何日間も引かなかった。また、高潮ともなれば東京湾の塩水が関東の深くまで遡っていた。この劣悪な環境の湿地帯で生えているものといえば、アシ・ヨシのみであった。
当時の江戸を再現はできないが、世界には似た景色はある。フランスの世界遺産のモンサンミッシェル修道院があるサン・マロ湾河口である。江戸城と同じようにモンサンミッシェル修道院は、巨大な干潟に向かってポツリと孤立してたっている。
家康はこの度し難い江戸に帰ってしまった。なぜ、家康は江戸に帰ったのか?この不可解な家康の行動の謎には、エネルギー問題が横たわっていた。(次号へつづく)