復興の形(1):「暴走老人」の開く道
越智 小枝
相馬中央病院 非常勤医師/東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 講師
「高齢化、高齢化、って騒がれると、自分らが帰還しちゃいけない、って言われている気になるよね」
高齢者の健康問題についてお話しした後、あるお年寄りが苦笑いしながら言われました。
全国の多くの地方と同じく、被災地では急速な高齢化がしばしば社会問題として取り上げられます。いわゆる「生産年齢」ではなくなり、近い将来要介護者になる住民が多い社会。私たちの中には、そういう社会に対する漠然とした不安感があると思います。
たしかに被災地に真っ先に帰還した方の大半は、60代以上の方です。ではそれは、
「ほかに行くところがなく、仕方なく戻ってきたお年寄り」
の姿なのでしょうか?これまで復興の地を見ていると、それは逆ではないか、と感じることがよくあります。
津波と原発事故に全てを奪われた街で、がれきの山に向かって一歩を踏み出す強さ。それは何よりもまず「長い年月を生きる」ということを知っている者にしか持てない力だったのではないでしょうか。その能力を持った人が真っ先に戻った結果、たまたま高齢化が進んだだけ。エネルギーに溢れる復興の街をみると、そう感じます。
「暴走老人、大募集」
昨年の3月末に避難指示解除がなされた飯舘村に、いち早く帰村したのは60代のYさん。元々冷害の多かった飯舘でこれ以上米を作るよりは、と、水田を牧草地に変えて放牧を始めています。
「今じゃないとこんなに土地を買えなかった。もちろん賠償金や補助金も、もらえるものはもらいますよ」。
愉快そうに話される裏では、あぜ道の除去、除染、試験放牧と繰り返される放射能測定など、地道で先の見えない作業が続きます。体力的にも楽な仕事ではないと思いますが、今若者に帰ってこいとは言わない、とYさんは言い切ります。
「土台作りは俺らがやるから、あとはお前らがやれ。15年後か20年後に帰りたくなった若者にそう言って渡せばいい」
挑戦もしないであきらめたくない、というご自身を「暴走老人」と自称され、「飯舘村は、暴走老人大募集!」と、同年代の帰還を呼びかけています。
傷を負っても、体の一部
同じく飯舘村に帰村された60代のKさんご夫妻は、里山汚染という逆境の中、敢えて山野草や里山と暮らすことを選択されました。事故の翌年にご自宅の山で採れたうるいの線量が検出感度以下であったことがきっかけで、「これなら住めるのでは」と思ったそうです。そんなKさん夫妻も、裏山の除染では一度は帰還を諦めかけたと言います。
「昔から、居久根(いぐね・屋敷林のこと)を切るのは家を建てる時かお金がなくなった時だけ、と決まっていた。原発事故の後、除染のために居久根を切ったことは、家族の分断の象徴のようでした。」
しかしその木材を何とか使って家を建ててくれる、という人が現れたことに勇気づけられ、居久根を使ったログハウスを建てました。屋内の線量は、年間1ミリシーベルトをはるかに下回ります。
「いつか子どもたちが帰って来たくなった時の場所があればいい。」
そんな思いを込め、40年間丹精込めて育てた木を大黒柱にしたログハウスには、今、山菜取りや山野草ツアーのお客が全国各地から訪れます。最初は猛反対していたお子さんも、今では「いつか戻ってくるから」と言われるそうです。
そんなKさんの原動力は、良い意味での「妄想力」。
「こんな野菜を作ろうとか、こんな商品を作ろうとか、いろいろ楽しいことを妄想しちゃうんです」
しかしその「妄想」は、厳しい現実から決して目をそらすことはありません。
「傷を負っても体の一部。捨てる訳にはいかないでしょ」
という言葉に、生きることへの自信がうかがえます。
年商1億円の花咲かじいさん
昨年避難指示が解除された浪江町で元々介護施設をされていたというMさんも60代。施設の裏で育てた野菜や鶏で100人ほどの入所者の食事を賄っていたそうです。原発事故の後、入所者は全員避難し、畑も汚染されました。
「夏先に一次帰宅したら、放置していた野菜がみんな花になっちゃってた。でもそれが綺麗でね。本当は一時停止禁止の場所なのに、みんな車を降りて見に来てました。それで『花なら作れるのでは』と思ったんです」
ただの花ではなく売れる花を作ろう、と、長野で1年研修を受け、1本500円以上で売れるという高級花卉の栽培を始めました。
「花卉のいいところは、夜の作業が少ないこと。若者はここに住まなくても、車で通勤して、稼いでくれればいい。稼げれば人は集まる」
今の目標は年商1億円。目算は十分にある、と、胸を張られます。「働き方改革」という流行語も、Mさんの前では霞んで見えました。
復興という道
被災地に若者が帰らない。今でも多くの人が、その悩みを抱えて若者にとっての魅力的な街づくりの為に尽力されています。しかし、真っ先に帰還された方々にお会いしていると、今までの被災地は、若者にとって魅力がない、のではなく、若者には帰還するだけの能力が足りなかった、という側面もあるのではないか、と思わされます。
東日本大震災と原発事故によって失われた街は、若者が夢を描けるような「白いキャンパス」ではありませんでした。未来が真っ黒に塗りつぶされ、夢やヴィジョンという言葉が上滑りにしか聞こえない。そんな世界に最初の一歩を踏み出すことができたのは、塗りつぶされることのない自分自身を持った高齢者しかいなかったのではないか、と私は思います。
生きることに自信があるからこそ、一見何もないがれきの山にも踏み出せる。譲れない自分があるからこそ、己の欲するところに従って暴走できる。成功体験があるからこそ、逆境の中に空想できる。復興の現場は、そんな生き方上手の「暴走老人、妄想老人」のエネルギーに溢れています。そんな街が、「若者がチャレンジできるレベル」まで落ち着くのは、これから先のことなのではないでしょうか。
山深く おどろが下をふみわけて 道ある世ぞと 人に知らせん
という古歌があります。高齢者が経験を頼りにおどろの中を踏み分けた、その先にある「道ある世」。復興の地で私たちが目にしているのは、そんな道の始まりなのかもしれません。