日本文明とエネルギー(2)

なぜ、奈良盆地が日本文明誕生の地だったか?


認定NPO法人 日本水フォーラム 代表理事

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緑に囲まれた奈良盆地

 日本文明は奈良盆地で生まれた。
 何故、日本文明はこの奈良盆地で生まれたのか?何故、大阪ではなく、京都ではなく、名古屋ではなかったのか?何故、奈良盆地で飛鳥京、藤原京、平城京と次々と都が造られたのか?
 このような疑問が湧いてくるが、これに答えてくれる歴史家は少ない。
 実は、奈良盆地には日本文明が誕生する条件が揃っていた。奈良盆地の地形と気象がその条件であった。奈良盆地の土地と気象が、日本文明の誕生を下支えしていた。

日本列島の旅

 紀元前後、中国大陸から多くの人々が日本列島に渡ってきた。この大陸から来た人々は、一体どこを拠点にしたのだろうか?
 大陸の人々が到着する土地の条件は、大陸に近くて船が安全に停泊できることであった。その場所は、博多湾であった。
 しかし、博多湾は大陸に近すぎた。ユーラシア大陸では、強大で暴力的な帝国が次々と誕生していた。博多は大陸と近く、その帝国の荒々しい息づかいが聞こえてきた。
 博多は日本列島の玄関ではあったが、落ち着いて日本文明を生んで、育んでいく土地ではなかった。いやでも、人々は日本列島の東に向って移動していった。
 人々は九州から離れ、関門海峡から瀬戸内海へ行った。内海は穏やかで、気候も一年中温暖であった。山口、広島、岡山には停泊のための良好な入江があった。しかし、これらの入江には島々が点在するだけで、背後の山々は海岸まで迫り、都を建設する平地がなかった。山口、広島、岡山の入江が埋め立てられ平野になるにはあと一千年以上待たなければならなかった。
 (図-1)は海面を5m上昇させた地形図である。6000年前の縄文前期は、温暖化で海面が5m高かった。広島市、岡山市、徳島市、和歌山市そして大阪市は海の下であった。
 四国の高松には入江もあり、手ごろな平地もあった。しかし、この高松の地形は東西180度に開いていて、あまりにも外敵に対して無防備であった。


(図-1)四国地方海進(5m)陰影段彩図  縮尺1:1,100,000
この図は、数値地図のデータを用いて作成したものです。提供:建設省国土地理院

 

神武天皇の東征

 日本書記(宇治谷孟「全現代語訳、日本書記」)の中で、神武天皇が東へ向かう「東征」で、塩土老爺(しおつちのおじ)の逸話がある。塩土の老爺は、先発して敵陣を見てくる斥候隊であった。歳を取った爺さまだったので、敵の目を欺けたのだろう。
 その塩土老爺が、神武天皇に向って「東に美き地あり。青山四周り(せいざんよもめぐれり)」と報告している。つまり「大将、大将、東に美しい土地がありましたよ。全周が緑豊かな山々で囲まれた土地です」。この情報を得た神武天皇はその奈良盆地に向った、という逸話である。
 日本書記の信憑性について、今も議論が続いている。しかし、奈良盆地の地形を表現した塩土老爺の言葉は、実にリアルである。
 塩土の爺様は、全山が森林に囲まれた盆地を見つけたのだ。それは緑のエネルギー溢れた盆地であり、それを発見した爺さまの興奮した息遣いが伝わってくる。

恵みの地、奈良盆地

 当時の奈良盆地は全周が山に囲まれ、その中央には湖が広がっていた。まさに、塩土老爺が報告したように、天国のように美しい盆地であった。
 この奈良盆地までは、ユーラシア大陸の暴力の騒音は聞こえなかった。さらに、周囲の山々の濃い緑は外敵の急襲も防いでくれた。(図-2)は当時の奈良盆地の地形である。
 この山々の木々は、住居と宮殿の建設材料となった。湖を自由に行きかう舟の材料にもなり、生活のための燃料エネルギーになった。
 さらに、この山々は重要な水を与えてくれた。盆地周囲の沢という沢から、清らかな水が流れ出ていた。この水は生命の源であり、稲作にとって不可欠な資源であった。
 この山々から流れ出た水は、盆地中央で大きな湿地湖を形成していた。周囲の山々は夏の海風を防ぎ、冬の北風を防いでいた。湖は鏡のように穏やかで、小舟を利用すれば盆地のどこにでも簡単に行けた。奈良盆地は自然の水運に恵まれていた。(図-2)は当時の奈良盆地の地形を示している。
 奈良盆地は、①安全で ②木材エネルギー資源があり ③水資源が潤沢で ④水運があった。
 文明が誕生するために必要なインフラが全て揃っていた。それは全て自然が与えてくれたインフラであり、奈良盆地は天の恵みに溢れていた。
 ここに人々が集まり日本文明を生み、育て行くこととなった。


(図-2)古代の奈良盆地の地形
出典:時空トラベラーThe Time Traveler’s Photo Essay