最終話「IAEA事務局長」
加納 雄大
在ウィーン国際機関日本政府代表部 公使
(「長期政権の科学者事務局長」:シグヴァード・エクルンド(第2代)1961-1981)
写真出典:IAEA
第2代の事務局長に就いたのはスウェーデン出身の科学者シグヴァード・エクルンド(Sigvard Elkund)である。
エクルンド事務局長選出のプロセスは困難を極めた。1961年6月の理事会では、4年前と打って変わってソ連が2代続けて西側から事務局長が選出されることに猛反発し、相当数の途上国がこれに同調した。エクルンドを推す西側諸国と、インドネシアの候補を推す東側諸国・途上国との間で激論が続き、理事会で投票に付された結果、一部途上国が立場を変更したことでエクルンドの事務局長任命が辛うじて決定された。しかしながら、対立の構図は総会に持ち込まれ、理事会決定を承認する総会決議案に対抗して、理事会に再検討を求める別個の決議案が一部途上国から提出され、ソ連に至っては、反対工作の一環として総会にエクルンド候補を招致する決議案を出す始末であった。総会本会議で丸一日、本件をめぐって各国間の議論の応酬が延々と続いたあと、再び投票となり、賛成46、反対16、棄権5でエクルンド事務局長任命がようやく承認された。再三にわたり口を極めて西側諸国やエクルンド個人への批判を繰り返してきたソ連代表は議場から退出し、新事務局長とは今後接触しないと公言する有り様であった。
多難な船出となったエクルンド事務局長であったが、興味深いことに、ソ連の敵意はその後徐々に解消し、結果的には、2期目以降は理事会・総会において全会一致で再任され続け、長期政権を築くこととなった。
1961年から1981年の5期20年にわたるエクルンド事務局長時代は、現在まで続くIAEAの様々な分野における機能が確立した時期である。キューバ危機(1962年)とフランス、中国の核実験(1960年、1964年)を経て、核不拡散における共通の利害を見出した米ソの後押しにより、保障措置(査察)におけるIAEAの役割が強化された。さらに、1970年に発効した核兵器不拡散条約(NPT)において核不拡散におけるIAEAの役割が位置付けられることで、「NPT・IAEA体制」が成立することになる。
また、科学者出身らしく、原子力の平和的利用でのイニシアティブに積極的で、食糧農業機関(FAO)との連携や、モナコにおける海洋研究所の設置、サイバースドルフ研究所の拡充などが進められた。
写真左:害虫対策の検証のため、ガンマ線照射で不妊化したハエをコスタリカのコーヒー農園で放出。(出典:国連)
写真右:同位体を使った水質調査のため地中海でサンプリングを行うモナコIAEA海洋研究所の研究者。(出典:IAEA)
任期の終わり近くに起きたスリーマイル原発事故(1979年)は、その後の原子力安全分野におけるIAEAの役割拡大の契機となった。また、この年は、IAEAが発足以来、事務局を置いていたウィーン旧市街のホテルから、ドナウ川の対岸に建設されたウィーン国際センター(VIC: Vienna International Center)に居を移した年でもある。
写真左:1957年から1979年まで旧市街のグランド・ホテルにあったIAEA事務局(出典:IAEA)
写真右:1979年に完成したウィーン国際センター(出典:IAEA)。IAEAをはじめとする国際機関が拠点を置いている。
退任に際してエクルンド事務局長は、長年の功績により、総会決議によってIAEA名誉事務局長(Director General Emeritus of the IAEA)の称号を贈られた。これは、その後の退任事務局長に対してなされる慣例となっている。
(「第3の男」:ハンス・ブリックス(第3代)1981-1997)
写真出典:IAEA
第3代のハンス・ブリックス(Hans Blix)の事務局長選出の過程も、波乱に満ちたものとなった。1981年の新事務局長選挙は、候補者が乱立する事態となり、6月の定例理事会では決着がつかず、7月、8月、9月と断続的に特別理事会が開かれ、投票手続きを巡る議論、候補者の提示、投票、更なる対応協議、というプロセスが延々と繰り返された。候補者の中で頭一つ抜け出ていたのは、西側諸国が推す西ドイツ(当時)と途上国が推すフィリピンの二人の候補だったが、いずれも理事国の3分の2の票を得ることができず、膠着状態が続いた。フィリピンの候補は後に駐日大使、外務大臣を務めた日本との縁も深いドミンゴ・シアゾン(当時は駐オーストリア大使兼IAEA理事)である。
IAEA総会が近づいた9月に入り、新たな候補者として、スウェーデン人外交官のハンス・ブリックスが浮上する。第2次大戦後の占領下のウィーンを舞台にした映画のタイトルの如く、いわば「第3の男」としてブリックスはIAEA事務局長選挙に登場したのである。
事務局長選出プロセスはIAEA総会が始まってからも並行して理事会で続けられ、ブリックスとシアゾンの間で理事国の3分の2の票を巡る綱引きが続いた。最終的にブリックスが3分の2の票を得たのは、総会最終日の9月26日土曜日夕刻である。撤退したシアゾンの提案により、理事会での事務局長任命は全会一致で決定された。最終的に、この理事会決定が同日の総会において全会一致で承認されたのは、日付が変わった27日日曜日未明のことである。
1981年は、同年6月のイスラエルによるイラクの民生原子炉への空爆を巡って、紛糾した年でもあった。この原子炉はIAEAの査察下にあった施設であり、イスラエルの空爆は国連安保理の非難決議が採択されるなど、国際社会の強い批判を浴びたが、IAEA理事会、総会でも、本件をめぐって大いに紛糾した。この問題はその後も尾を引き、翌1982年のIAEA総会では、イスラエル代表団の委任状が総会で否決されるというハプニングが発生した。その際の事務局の対応の不手際もあり、憤慨した米国がIAEAの全ての活動から撤退を表明する事態となったため、就任1年目のブリックス新事務局長はその後数ヶ月にわたり収拾に追われる羽目となった。
4期16年にわたるブリックス事務局長時代は、IAEAがその機能を更に拡充した時期である。原子力安全分野では、1986年のチェルノブイリ原発事故が契機となって、事故発生後の迅速な関連情報の共有と相互援助を促す原子力事故関連2条約が採択・発効(1986~1987年)し、さらには原子力安全条約の採択(1994年、発効は1996年)など、原子力安全に関する国際ルールの構築が進んだ。
1988年にチェルノブイリ原発サイトを訪問したブリックス事務局長(出典:IAEA)
また冷戦終結後の1990年代には、NPT無期限延長決定(1995年)によりNPT・IAEA体制の普遍化が進んだが、同時期にクローズアップされたイラクと北朝鮮の核問題は、IAEAの保障措置(査察)制度の限界を明らかにすることとなり、追加議定書雛形の作成(1997年)とその普遍化による強化が進められることとなった。
写真左:湾岸戦争後のイラクでウラン濃縮施設跡の調査を行うIAEA調査団(出典:IAEA)
写真右:北朝鮮に特別査察を求めることを決定した1993年2月のIAEA理事会(出典:IAEA)。これに対し、北朝鮮は翌3月、核兵器不拡散条約(NPT)からの「脱退」を通告した。