水素社会を拓くエネルギー・キャリア(8)
エネルギー・キャリア各論:メチルシクロヘキサン(MCH)
塩沢 文朗
国際環境経済研究所主席研究員、元内閣府戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)「エネルギーキャリア」サブ・プログラムディレクター
これまで何回かにわたって、「水素社会」に至るシナリオについてご紹介してきた。「水素社会」においては、CO2フリー水素エネルギーの供給チェーンが構築されていることが必要である。その供給チェーンにおいて大きな役割を担うことが期待されているエネルギー・キャリアとして、SIP「エネルギー・キャリア」では、メチルシクロヘキサン(MCH)、液体水素、アンモニアの3つを候補として取り上げ【表1】、それらの開発、利用のための研究開発から実用化に至るまでの取組みを支援している。
いずれのキャリアについても、その供給チェーンを構築していくためには、利用技術やコストダウンのための研究開発、規制、制度の見直し、社会の受容性の獲得等が必要である。私は、そういった取り組みの成果をもとに、おそらく、どれか一つの物質だけが選択され、導入されるという形ではなく、用途毎に異なる要求性能、コスト要件に対して最も良く応えることのできるキャリアが、それぞれ選択されるという形で導入されていくのではないかと考えている。
それではこれから、それぞれの物質の特徴について説明しよう注1)。まず、供給チェーン全体が実証段階に入りつつあるMCHから始めたい。
【MCH】
MCHをエネルギー・キャリアとして利用するというのは、MCHとトルエンという2つの物質間の水素の数の差を利用して水素を運ぶというアイデアである。【図1】のとおり、トルエンを水素化することによって水素を環状飽和炭化水素化合物であるMCHとして固定し、利用する際にはMCHから脱水素反応により水素を取り出して利用する。脱水素の後、生成するトルエンは、回収、リサイクルして再使用する。ここではMCHは文字通り、水素を運ぶ「水素キャリア」としての役割を果たす。
MCHだけでなく環状飽和炭化水素化合物の水素化と脱水素によって水素を運ぶというアイデアは有機ハイドライド法と呼ばれ、このアイデア自体は1980年代から知られていたが、脱水素反応に用いる触媒の劣化が激しく、実用化が困難であった。最近になって千代田化工建設(株)(以下、千代田化工)が触媒の長寿命化に成功し、工業化に目処を付けたことから、有機ハイドライド法の中でもMCH-トルエン系の実用化に向けた取組みが加速した注2)。
この方式の優れているところは、MCH、トルエンがともに常温、常圧で液体であることから、この系を利用することによって、水素ガスを常温、常圧で約1/500の体積の液体として輸送することが可能となることである。それによって水素を長期間、大量貯蔵することも可能となる。さらに、MCHもトルエンもガソリンの成分であることから、その輸送、貯蔵では既存のガソリン流通インフラを使うことができる。例えば、商業化されている5万トンのケミカルタンカーでMCHを運べば、1回に約3,000トンの水素が輸送できる。(これは60万台のFCVを満タンにできる量に相当する。)長期間、大量貯蔵することができるので、備蓄により供給セキュリティの確保を図ることも可能である。
この系では、トルエンへの水素添加、MCHからの脱水素といった2つの化学反応を効率よく、安定的に進めるための工業的プロセスの開発が必要となるが、先の触媒の開発の成功によって、この反応系に係る未解決の大きな技術開発課題はないと考えられている。
- 注1)
- 繰り返しになるが、以下の説明は、基本的に、科学的事実及び公開情報をもとに記したものであるが、説明内容は、あくまでも筆者の個人の責任でまとめたものである。
- 注2)
- 有機ハイドライド方にはMCH-トルエン系のほか、シクロヘキサン(C6H12)-ベンゼン(C6H6)系、デカリン(C10H18)-ナフタレン(C10H8)系が知られているが、ベンゼンは発がん性物質であること、ナフタレンは常温では固体であることから、MCH-トルエン系の開発が最も進んでいる。