「大飯原発判決」これだけの誤り
澤 昭裕
国際環境経済研究所前所長
判決に際しては、「危険性が万が一でもあるのかが判断の対象とされるべき」ではなく、差し止め請求を受けている原子力事業者が、リスク(危険が顕在化する確率とその際の被害の大きさ)を最小化するため適切かつ十分な対策を取っているかどうかが、判断の対象とされるべきなのである。
この本質論を裁判官が理解できない限り、「ゼロリスクでなければ原発を動かすべきではない」という一見尤(もっと)もらしい判決が今後とも増える懸念がある。それを避けようとすれば、原子力事業者は訴訟で実質ゼロリスクを証明することが必要となりかねない。すなわち、これは「原発を動かしたければ、原子力事業者は再び安全神話を語って世の中を説得せよ」と求めるに等しい判決なのである。
≪累は全てのインフラに及ぶ≫
第三は、本判決というより、訴訟の構造問題とでもいうべきものだ。つまり、原発のみならず全てのインフラは何らかのリスクを有していると同時に、公益的な利便も提供している。インフラに隣接する住民が人格権に基づいて当該インフラの運転差し止めを求め、裁判で、その請求が認容された場合、インフラの機能は停止し公益的な利便も失われてしまう。
裁判所は、具体的な事案に限定して局地的な解決を判示することしかできない。公益的な利便を維持するために何が必要になるかを考える必要も責任もない。インフラ機能停止によってもたらされる混乱や公益の喪失は、行政にそのしわ寄せがくることになろう。
判決を下す前に、それによって予想される混乱や公益の喪失をカバーするための行政との調整が行われるような制度的な仕組みはない。であれば、判決を行う裁判官の良識に頼るしかない。
今回の判決は、電力需給問題、電気料金、温暖化ガス排出問題などは原発の危険性に比べれば取るに足りないかのごとき扱いをしており、世間の喝采を受けている。しかし、私から見れば、本判決は個別的請求に対する答えでしかないのだという防壁を築きながら、一方で公益の喪失との調整の必要性については、想像力が遠く及んでいないものでしかない。
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