私的京都議定書始末記(その2)

-初めてのボン、アンブレラ会合-


国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授

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 初めて交渉官として参加したのは2000年6月にボンで開催された補助機関会合であった。補助機関会合は2週間にわたる長丁場の会合だが、確か、その時は資源エネルギー庁で別途の用務があり、1週目の週末から参加したと記憶している。会場はマリティムホテル。気候変動枠組み条約事務局がボンに置かれていることもあり、閣僚レベルのCOP会合以外、交渉会合の大部分はこのホテルで行われる。ボンの中心部から離れたところにあり、周辺が特に風光明媚なわけでもない。2週間滞在していると飽きてくるのだが、それ以降、現在に至るまでこのホテルに嫌と言うほど通うことになる。

ボン マリティムホテル

 到着後、まず経産省作業室に行って、谷みどり地球環境対策室長や石川和洋係長から、1週間の交渉経過を教えてもらった。出張前に分厚い交渉テキストを受け取ってはいたが、各条文ブラケットだらけで、何やらさっぱりわからない。まずは、どの条文がクリティカルなのか、日本は何を取らねばならないのか、何をとられてはならないのか、について理解する必要があったのだ。その後、政府代表団室に行って、外務省の朝海地球環境大使、松永気候室長、環境省の梶原室長、関谷補佐らと顔合わせした。日本代表団では外務省、環境省、経産省の三省が中核メンバーであり、特に梶原室長、その後任の高橋室長とは京都メカニズム交渉でタッグを組むことになる。

 それからアンブレラ会合に出席するようにと言われた。アンブレラグループとは、EU以外の先進国が参加する交渉グループであり、米国、カナダ、豪州、NZ、日本、ノルウェー、アイスランド、ロシアが参加していた。交渉会合の際には、毎朝、代表団会議があり、アンブレラ会合で情報交換をし、必要に応じてポジションのすり合わせを行う。日本にとっては大事な「同盟国」である。「アンブレラ」の由来は「傘のように幅広く国を包含しているから」ということだが、「バブル(泡)を組むEUに対抗するために傘が必要」という穿った解釈もある。EUのような連合体ではないため、加盟国間で交渉方針を常に統一するといった性格のものではなく、各国の立場の違いを認める、もっと緩やかな連携であった。環境至上主義的、教条的なEUに対してより現実的なアプローチを志向する国々が多いのも特色であろう。

 アンブレラ会合に初めて出席し、色々な人々と出会った。アンブレラグループの当時の議長はカナダ環境省のジョン・ドレクセージ氏。米国は国務省のトリッグ・タリー氏が中心人物だった。その他、ニュージーランドのムレイ・ウオード氏、ノルウェーのゲオルグ・ボースティング氏等が主要メンバーであった。その中には米国のタリー氏やノルウェーのボースティング氏のように、現在も交渉官として活躍している人もあれば、カナダのドレクセージ氏のように、その後、政府を離れ、地球温暖化関連のシンクタンクやNGOに参加した人もいる。共通していることは、この世界に足を踏み入れた人は、その後なかなか抜けられない(あるいは抜けたがらない)ということだ。私は2002年から2007年末まで交渉から離れていたが、5年ぶりに交渉に戻ってみると、相変わらず知った顔が会場を闊歩しているのを見て、その感を強くしたものだ。

 アンブレラ会合に出席して、ショックだったのは、皆の言っていることがさっぱりわからないことだった。OECD代表部でIEAやOECDのマルチ会合に出席し、英語はそれなりにわかるつもりでいた。しかしアンブレラ会合では皆が条文番号や、人の固有名詞、この世界でしか通用しないjargon(例えばCDM、JI、排出量取引のクレジットが相互に交換可能なことを意味するfungibility などという言葉は辞書にも載っていない!)を連発しながら話をしていた。彼らが仮に日本語で話をしていたとしても、半分も理解できなかっただろう。大変な世界に入ってしまったと途方に暮れた。

 ここで、その当時、日本政府は国際交渉で何を目指していたかを説明したい。激しい交渉の末、京都議定書が97年にとりまとめられたが、その詳細ルールはその後の交渉に委ねられていた。いわば法律はできたが、政令、省令ができていないようなものだ。98年以降は、そうした詳細ルールの交渉が行われていた。既に述べた通り、日本は京都議定書で90年比6%削減目標に署名していた。しかし、既に省エネが最も進んでいた日本では、6%を全て国内対策で達成することは不可能だった。国内対策での削減分はせいぜい90年比横ばい、残りは森林吸収源3.7% と京都メカニズムで達成するというのが6%受け入れの前提であった。けれども、これはあくまで日本の皮算用であり、森林吸収源の計測ルールも京都メカニズムの実施細則も全く決まっていなかった。仮に森林吸収源の計測ルールが非常に制限的なものになったり、京都メカニズムの利用が制限的なものになった場合、6%という目標は決まっているため、その分、国内対策の数字を深堀りしなければならないことになる。これは膨大なコストを日本経済に強いることになり、何としてでも避ける必要があった。

 このため、日本が京都議定書を批准するに当たっては、森林吸収源の計測ルールで3.7%分を確保すること、京都メカニズムのルールをできるだけ柔軟で利用しやすいものにすること、そして遵守メカニズムが罰則などを伴う厳しいものにしないことの3点が至上命題だった。目標値に合意する場合、その実現可能性や達成方法について成算があることが普通のアプローチだ。しかし、この交渉では、6%が先に決まっており、その構成要素の計算方法はその後の交渉に委ねるという、真逆のことをやっていた。今から考えても、実に馬鹿げたゲームをやらされていたと思う。EUは東西ドイツ統合、英国のdash for gas 等で90年比8%減は何の努力をしなくても達成できる。他方、日本が6%削減するためには、これから交渉する森林吸収源の計算方法、京都メカニズムの細則で、自分の皮算用を現実に確保せねばならない。EUに比して交渉ポジションが弱くなるのは当たり前のことだった。元をただせば、日本6%、米国7%、EU8%という京都議定書の目標値は日本の一人負けだった。この頃の交渉は「京都議定書を批准可能なものにするための実施細則の交渉」であったが、日本にとっての本質は、「京都議定書での『負け』のダメージを最小限にするための交渉」であったと言えよう。

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