その手は桑名の焼き蛤


国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授

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 ちょっと前になるが、本年2月、欧州委員会気候行動総局と気候変動問題について議論する機会があり、その際に印象に残ったことをいくつか記しておきたい。

 一言で言えば、欧州委員会はEU排出量取引制度(EU-ETS)の維持に躍起になっている。

 かつてEU-ETSは温暖化対策の「先進事例」として日本国内でも大いにこれを持ち上げる議論があった。特に2009年初めにオバマ政権が誕生し、マケイン・リーバーマン法案に代表されるキャップ&トレード法案が米下院で可決されるに及び、今や排出量取引は国際的な流れであり、「バスに乗り遅れるな」という声が強まり、慎重論をとなえると反動よばわりされるような風潮があった。

 しかし、本家本元のEU-ETSは苦境に瀕している。EU-ETSのクレジット価格は最盛期の2008年には30ユーロ/トンを付けたが、それをピークに趨勢的に下落を続け、2013年に入り、5ユーロ前後まで低下している。

 これには複数の要因がある。最も大きいのはリーマンショック、ユーロ危機に起因する経済低迷により、クレジット需要が低下していることだ。次にEUの目標レベルの引き上げが頓挫していることだ。EUはカンクン合意において「2020年までに90年比20%減、しかし他の主要排出国が同等の努力を行うのであれば30%減まで引き上げる用意がある」という2段構えのプレッジをしていたが、削減ポテンシャルの大きな東欧諸国の取り込みに加え、景気の低迷により、90年比20%減は自然体でも達成できることが明確になった。このため、欧州委員会は2011年12月にEU2050ロードマップを出し、削減目標を25%まで引き上げることを企図したが、ポーランド等、東欧諸国の反対により、目標引き上げができないままにいる。更に大きな絵姿で見れば、2013年以降、京都議定書第2約束期間に入るのはEUを含む先進国の一部、地球全体の排出量のわずか16%程度であり、米国においてキャップ&トレードが導入される可能性が皆無であることもあり、グローバルな炭素市場への道筋が見えなくなっていることもあろう。

 皮肉なことに欧州委員会が講じた色々な施策が排出量価格の低下を招いている側面もある。EU再生可能エネルギー指令に基づき、各国は何らかの形で再生可能エネルギーの強制導入を図っている。その多くは電力分野における再生可能エネルギー導入だ。他方、EU-ETSフェーズ2では電力部門でオークションを導入した。排出量取引制度は、本来、電力部門で最も費用対効果の高い形で温室効果ガス削減を促すことを狙ったものであるが、電力分野で割高な再生可能エネルギー強制購入制度も導入されたため、クレジット需要がその分低下することになった。だから欧州委員会の気候変動関係者の中には「排出量取引に加えて再生可能エネルギー指令を導入したのは誤りだった」という人もいる。

 上記のような価格トレンドは、「排出量取引を通じて炭素価格シグナルがつき、グリーン技術の開発・導入が進む」という欧州委員会の意図に反することは言うまでもない。少なくとも15ユーロ/トン、できれば30ユーロ/トンまで引き上げたいというのが欧州委員会の思いであり、そのために色々な対策が議論されている。その一つがフェーズ3における電力部門のオークションを延期し、クレジット供給量を制限すること(これをback loading と呼んでいる)、もう一つがフェーズ2からフェーズ3への繰越制限をすることだ。いずれもクレジットの供給量を制限することにより、価格を引き上げることを狙ったものだ。中には英国のようにEU-ETSのクレジット価格の動向如何にかかわらず、炭素価格にフロアプライスを設け、2020年に30ポンド(約34-5ユーロ)、2030年に70ポンド(77-80ユーロ)まで引き上げるという国もある。

 いわゆる経済的手法の中で炭素税は炭素価格が明確になる反面、削減量が不確定といわれ、排出量取引は目標削減量を確実に達成するが、炭素価格が不確定といわれてきた。排出量取引のメリットは与えられた削減量の中でコストを最小化することだ。だから排出量取引で、クレジット需給が緩和し、価格が低下することは、想定の範囲内のはずだが、価格が低下すると、その引き上げのために手立てを講じ、あまつさえフロアプライスを設けるというのは、要するに「上向きにのみ弾力性を有する税」を導入することに他ならない。

 欧州委員会気候変動総局の人と議論すると、「炭素に価格をつけるという政策は正しい。炭素価格は趨勢的に上昇せねばならず、そのためにクレジットの供給量を絞ることは、中央銀行が為替介入をするようなものであり、決しておかしなことではない。産業界に温室効果ガスを削減させるためにはキャップをかけ、排出量取引やJI、CDMのような柔軟性メカニズムと組み合わせるしかない」という声が強い。もともと欧州委員会環境総局から分離独立した局であり、そのスタッフの大部分はEU-ETSを運営するために存在する。ユーロと同様、多大な政治的、経済的、人的リソースを投入して作られたEU-ETSを崩壊させてなるものかという強い意気込みがうかがえる。

 昨年の10月にコペンハーゲンで開催されたグリーン成長フォーラムに参加した際、ある欧州大手再生可能エネルギー産業のCEOが「現在の炭素価格は低すぎてグリーン成長を促すシグナルになっていない。もっと価格を引き上げねばならない」とコメントしていた。私がフロアから「どの程度まで上昇すればグリーン成長が進むのか」と質問したところ、「高ければ高いほどいい」と実に明快な答が返ってきて、「なるほど。彼の立場に立てばそうなのだろうな」と妙に納得したものだ。

 しかし、欧州経済が現在おかれた状況を考えるとき、この議論は部分最適ではあっても全体最適になっていないのではないかという印象を強く持った。ユーロ危機で各国は労働コストの引き下げを初めとする苦しい構造調整を強いられている。その中でエネルギーコストについては、「高ければ高いほど良い」のであろうか。欧州のエネルギー・環境政策を見ると、膨大な直接・間接補助金を投じて太陽光、風力等の間欠性のある再生可能エネルギーを導入し、それを補うバックアップ電源の経済性を確保するために更に補助金を投入する、更に低迷するクレジット価格を引き上げるため、供給量を絞るという「エネルギーコストアップ三重奏」を演じているように見える。米国がシェールガス革命によってエネルギーコストの低下と競争力回復を謳歌しているのと真逆の方向に進んでいると言えよう。

 「かつて石油ショックの際、日本経済は省エネを進め、産業競争力を大幅に強化した。だからエネルギーコストを引き上げることにより、新技術導入、技術革新にインセンティブを与え、グリーン経済化を進めるべきだ」という議論がある。しかし、これは比較の対象として適切ではないと思う。石油ショックの際は、日本も欧州も米国も、国際石油価格の上昇という外的ショックにさらされた。その影響度は石油依存度、石油輸入依存度によって異なるが、少なくとも消費国側が政策的にエネルギー価格を引き上げたわけではない。また省エネ、代替エネルギー導入の大きなインセンティブはエネルギーコストの引き下げであった。現在、欧州がやっていることは、米国でエネルギー価格が低下し、中国が低コストの石炭を燃やしているのと裏腹に、欧州域内では継続的にエネルギーコストを引き上げていこうということであり、石油危機時とは明らかにコンテクストが違うと思う。

 ここで本稿の妙な表題、「その手は桑名・・」に触れたい。上記のようにEU-ETSが苦境にある中で、欧州の気候変動関係者と議論すると、「日本の25%目標を見直すそうだが、国際交渉にネガティブなシグナルを与える。福島後に25%を達成することが難しいことはよくわかるが、オフセットを通じて目標を達成する方法もあるのだから、是非、25%を維持してほしい」という話をよく聞く。国際交渉を長くやって性格が歪んでしまった(?)目から見ると、「国際交渉へのシグナル云々」という表向きの議論はともかく、裏の意図も見えてしまう。

 日本は京都第二約束期間に参加しないため、ロンドンの排出量取引市場でクレジットを購入してくることはできないが、途上国でCDMプロジェクトを実施し、自国の目標達成に使うこと(いわゆる「原始取得」)はできる。日本では原発の再稼動がなかなか進まず、ガス火力がこれを代替し、更に石炭火力も新設されようとしていることを考えれば、真水での達成は100%不可能だ。そうした中で25%を維持すれば、海外クレジットに依存するしかない。二国間オフセット制度がどの程度、国際的に認められるか、どの程度の量をかせげるのかわからない以上、CDMに相当部分依存せざるを得ない。これは間接的に欧州の排出量取引相場にも底上げ圧力になるし、もしかしたら第2約束期間参加を再考するかもしれない・・・そんな風に見えるのである。

 既に原発停止分を埋め合わせるため、大量の天然ガスを輸入し、数兆円の国富が海外に流出している。輸出産業にとって福音となっている円安もこの点についてはコスト増になる。それに加えて25%達成するためのクレジット購入代金が更に海外に流出するなど、有り得ない話であろう。欧州関係者の話を聞きながら、古臭い表現だが、「その手は桑名の焼き蛤」と心中つぶやくのであった。

(補遺)
 本稿を書いて二週間後の4月17日の新聞に「欧州議会本会議が16日、欧州委員会提案のオークションの後ろ倒しを否決し、クレジット価格が4.5ユーロから2.63ユーロに暴落した。気候変動アジェンダは雇用や経済成長への懸念に打ち負かされている」という記事が出た。もともと本提案は環境委員会では可決されたものの、エネルギー委員会では否決されており、本会議での帰趨が注目されていた。エッティンガー・欧州委員会エネルギー担当委員は「欧州のエネルギー政策はもっとコストを考慮したものにし、温暖化政策はプラグマティックなものでなければならない」とコメントしている。ドイツでは環境大臣が否決を嘆き、経済大臣が否決を歓迎するという状況に陥っている。欧州委員会気候変動関係者は欧州内からも「その手は桑名」と言われているようだ。

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