京都議定書の“終わりの終わり”
国連気候変動枠組み交渉の現場で見た限界点
竹内 純子
国際環境経済研究所理事・主席研究員
化石賞報道の化石化
気候変動枠組み条約の原理主義に陥っているのは、交渉団ばかりではない。COP18の期間中、日本政府は2回化石賞を受賞した。化石賞とは、COP開催期間中の毎日、国際的な環境NGO(Climate Action Network)が、交渉に後ろ向きであると判断した国・地域に贈るもので、化石燃料を指すと同時に、化石のような古い考え方に固執しているとの皮肉がこめられている。日本政府がCOP18開催初日の昨年11月26日に受賞した理由は「京都議定書から逃げた」というのがその理由だったが、京都議定書を継続することが温暖化対策に前向きなことだとは、私には思えない。理由は本誌12月号に投稿したとおり、一部の国にのみ削減義務を課すトップダウンスキームの問題点による。気候変動枠組み条約の理念を実現する手段として初めて温室効果ガスの排出抑制を定めた京都議定書には一定の意義があった。しかし世界経済は1990年代初頭とは様変わりし、京都議定書を金科玉条のごとく守っても、地球は守れないことは認めねばならないだろうに、今もなお京都議定書への参加・不参加が化石賞の基準になっていることに驚きを感じた。
そして、日本が化石賞を受賞すると、国内では一斉に「日本の主張、国際社会に受け入れられず」「日本孤立」といった報道が流れる。私もCOPに参加する前は、本当に日本政府が孤立しているのではと心配したものだったが、化石賞の発表現場にそのような悲壮感はない。環境NGOの若者が学園祭の出し物のような寸劇とともに毎日の化石賞を発表し、模造紙に手書きで書いていく。各国交渉官やオブザーバーたちも、お祭りを見るように写真を撮ったり、一緒に歌を歌ったりしている。
化石賞という第三者評価ももちろん重要だが、自分たちが自国政府の取り組みを具体的に把握し、自らの考えで評価することが必要であり、報道が「化石化」していないか疑う目も必要だろう。
COP開催期間中の名物となっている化石賞
(写真は2010年のCOP16の際のもの)
日本の取るべき道
現在、日本が持つ唯一の目標は「2020年の温室効果ガス排出量を1990年比で25%削減する」である。これは発表当時からその実現が国内外から疑問を持たれていたが、原子力発電所をほとんど停止している今、全くリアリティがなくなっている。
自民党政権に代わり、茂木敏充経済産業相からはこの目標の見直しが言及された(昨年12月28日の閣議後記者会見)。しかし、気候変動交渉は「武器なき戦い」だ。震災直後であればまだ理解は得られやすかったであろうが、これから目標値を引き下げるには交渉で火だるまになる覚悟とそうならないための周到な準備、納得性ある代替案が必要になる。目標値を「努力目標」として維持したまま達成する手段を幅広く認めさせる、あるいは、削減余地の大きいアジア太平洋地域諸国と組んで共同での目標値を持つという方針もあろう。
日本政府がここ数年温めてきた2国間オフセット・クレジット制度は目標達成に向けた柔軟なアプローチの一つだ。温室効果ガス削減に実効性があり、多くの途上国にとってメリットがある新たなスキームを提案し、日本が目標の前提条件とした「全ての国が参加する公平で実効性ある枠組み」を自ら実現する努力が求められる。いずれにしても日本は早急に、現実的なエネルギー政策と温暖化対策を示す必要がある。
※月刊ビジネスアイ エネコ 2月号より転載